昔から
お水の世界(飲食業界)では
2・8(ニッパチ)は暇
つまり二月八月は暇な時期
って云われているが
我が業界?は逆で
二月八月は何かと野暮用が
続いて忙しい時期だ
三月は確定申告も゙あるので
あんまりのんびりも出来ない
ので
顧みれば
サッーと腹に入る簡単な飯が
多かった二月と三月前半だった
では早速書いて行こう
又、画像が矢鱈多く長いが
簡単な文のブログになるが
悪しからず…
先ずは
二月と三月前半は
一回しか
行けなかった
豚もつの
島田屋
カシラ、軟骨、シロ、レバのもつ焼き
新橋編
野暮用で新橋に行った序に
何回か
バシン(新橋)飯を食べた
又違う日は
鶏の唐揚げ定食
鶏料理専門の店だから
唐揚げも美味い
新橋で飯を喰ったあとは
ニュー新橋ビル一階の
生ジュース屋で
生ジュースを飲んで健康になる
ドラゴンフルーツ
を飲んで健康になった…かな?
月一の
銀座新橋夜回りの会の直会は
JR高架下の
安酒場のチェーン店
新世界の伝串で一献
JR高架下のやきとん屋で
軽く一杯やろうとしたが
開店ちょい過ぎだったがすでに満卓になり
諦めたが
客の半数以上は
外国人観光客だった
新橋から有楽町駅の間の
JR高架下は
赤レンガの壁を残しつつ
綺麗に改装され
洒落た店があるが
有楽町駅側のこの場所だけは
昭和の不良達か
「楽町(ラクチョウ)」と
呼んでいた時代の雰囲気が
残る一角で
ここを通る度に
終戦直後に
夜の街に立った女性達を唄った
「星の流れに」が
頭の中に流れて来る
勿論終戦直後は
まだこの世に生を享けてはないが
小学生の頃に
懐かしの歌謡曲
みたいな番組で
聴き知っていたが
中坊の頃
三茶にあった三本立て映画館に
昔のヤクザ映画を観に行ったら
たまたま三本の内の一本が肉体の門
だった
野上由美子・宍戸錠が
出演していた映画で
劇中に流れていたこの曲を
聴いて
映画の中に女性達の生き様と世界観を
唄った切なさと心に染みた一曲だった
野暮用で銀座に行った序に
ザギン飯を食べた
久しぶりに銀座の超老舗街中華
「満福」で中華そばを啜ろ
と向かったら
通り沿いに
去年の春頃に食べた
らーめん一郎
があり
結構美味かったので
空いていれば
食べて行こうと思い入ったら
カウンター七席の小さな箱で満席だったが
丁度食べ終わった一人客と入れ替わりで
座れた
特製醤油ラーメンを食べた
が
しじみラーメンもあり
以前行った時に
次回はしじみラーメンを食べよう
と決めていたが
すっかり忘れてしまい
特製醤油ラーメンを注文してしまった
この店は
青森のシャモロックや
十三湖のしじみと
素材に拘った所謂意識高い系のラーメンだが
特製醤油ラーメンも
九百八十円と千円の壁を超えてない
良心的なラーメン屋だと思った
次回は忘れずに
しじみラーメンを食べるぞ!?
又ある日は
三州屋名物
カキフライ定食を食べる
四月頭にはカキフライも提供が終わるから
もう一回位食べないと
秋まで食べられない
時間が無い時は
たまに
弁当も買って食べた
銀鮭海苔弁
そこそこの値段がするが
冷めていても美味かった
そう言えば
弁当も良く食べた月だった
又ある日は
唐揚げ専門店の
唐揚げ弁当
塩唐揚げとにんにく醤油唐揚げの弁当
あと食費節約で
知人に美味い!と勧められた
やっぱセブンイレブンでしか
売って無い
ぼてぢゅう
の極太濃厚焼きそば
ただ
ぼてぢゅうで焼きそばを喰った事が無いので
店の味と同じかどうか?
分からないけど
普通に美味かった
六本木編
六本木は
昭和の不良が
ギロポンではなく
ポンギと呼んでいた
十代の頃からディスコに
踊りに行った街で
銭もそこそこ廻っていた
成人になってからは
オネェちゃんがいる店に
良く遊びに行っていた
呑んだ〆に良く行ったのが
朝迄やっている中華料理の
香妃園で
鶏そばを良く食べに行った
プライベートの野暮用で
六本木ヒルズの中の
出て来た麺は
伊勢うどんの様な
ふにゃふにゃの麺
伊勢うどんは美味いが
ホタテのクリームうどんには
合わない
つるとんたんって
こんな麺だったけ?と
頭を傾げながら
食べたが
ちょっと俺の口には合わなかった
あの頃は
酔っ払っていて
腹も空いていたのか?
何でも美味かったのかもしれないが
今回は
店のチョイスを間違えた
この後
麻布十番迄散歩したが
十番で更科で蕎麦を手繰れば良かった
と後悔した
買って帰った
鯛焼き序に
甘シャリ編
いちご大福と
牛筋と大根の煮込み定食
八百五十円
更にドリンクバー付きで
ソフトドリンクが飲み放題
三時半迄ハッピーアワーで
生ビール、ハイボール、サワーが
三百五十円
その他のランチ定食も
千円以内
安くて美味くって
俺みたいに
銭の持ち合わせが少ない時に
安心して食べて呑める
お勧めの店だ
と適当に摘んだ
横浜編
野暮用で横浜に行った序に
食べたハマ飯は
横浜西口地下街の一番端っこ
エキニア横浜の地下
田中屋のうどんは
家系ラーメンの麺位
細い麺だが
これが又
鴨の出汁が利いた汁に
良く絡んて美味い!
又ある日は
大森のちょっと敷居が高い蕎麦屋
愛知屋で
蕎麦がきを食べる
帰りに
お大師さん近くの
週一の割合で食べに通っている
と
二月と三月前半は
こんな物を食べて
どうにか生き永らえていた
さて
今宵の漢の子守唄は
何か春らしい歌でも
と思ったが
三月は
米軍に依る
東京大空襲を始め
日本人大虐殺のジェノサイドが
始まった月
戦後
戦争未亡人や
空襲によって
家も家族も全て失った
女性達が生きる為に
夜の街角に立った
同胞からは
パンパン、パンスケ、洋パン
と蔑まれても
春を売って凌ぐしかできなかった
最近は歌舞伎町の大久保公園の
立ちん棒が話題になっているが
ホストに貢ぐ為に春を売る
女性達とは環境が違い過ぎる
戦後の焼き野原で
夜の街に立った女性達は
全国にいたと言う
東京では
ラクチョウ(有楽町)や
ザギン(銀座)
バシン(新橋)
ノガミ(野上・上野)
エンコー(浅草・公園の逆さ言葉)
ブクロ(池袋)
ジュク(新宿)
ブヤ(渋谷)
等
昭和の不良達が隠語で呼んだ
闇市が立った繁華街に
彼女達は立っていた
彼女達が
自嘲的に口ずさんだ
「星の流れに」を聴きながら
眠りに就こう
当初
淡谷のり子に歌わせるはずだったが
「夜の女の仲間に見られる様なパンパン歌謡は歌いたくない」
と断られ
菊地章子が唄うことになった
当初は全く売れなかったが
夜の女性達から
徐々に人気が出て
映画「肉体の門」の影響もあり
大ヒットしたと云う
当初は
「こんな女に誰がした」
だったがGHQから
反米感情を煽る
とクレームが来て
「星の流れに」なった
三島由紀夫ら盾の会の
最後の晩餐でも(新橋末げん)
この歌を合唱したと云う
多分
三島由紀夫の市ヶ谷義挙の
檄文を読む限り
最後の歌詞を
「こんな日本に誰がした」
と変えて唄ったんじゃないか?
と思うは俺だけかな?
今の日本を見ても
「こんな日本に誰がした」
と歌いたくなる人も結構いるだろうね
「星の流れに」
唄菊地章子
作詞:清水みのる
作曲:利根一郎
星の流れに 身をうらなって
どこをねぐらの 今日の宿
荒む心で いるのじゃないが
泣けて涙も かれ果てた
こんな女に誰がした
煙草ふかして 口笛ふいて
あてもない夜の さすらいに
人は見返る わが身は細る
町の灯影の 侘びしさよ
こんな女に誰がした
飢えて今頃 妹はどこに
一目逢いたい お母さん
ルージュ哀しや 唇かめば
闇の夜風も 泣いて吹く
こんな女に誰がした
(こんな日本に誰がした)