東北大震災からちょうど一ヶ月 | 運の良い人・まる◎さんの感動日記

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今ボクは仙台にいます。




小学生からの幼なじみで大親友の381の仕事場に居候をさせてもらっています。
昨日は381とで小学校で育った気仙沼に行ってきました。
わずかであるけれども支援物資を持っての気仙沼行きです。
今までも、みんな気になって行きたかったけれど、仙台に住む人ですらガソリンがなかったり
移動する道が交通規制されていて、身動きがとれなかったのです。
今回は
381と一緒に同行してくれた小学校の時の同級生が身近な人たちに対して支援物資を持ってくれました。



ボク自身は気仙沼に入るのはほとんど10年ぶりのことです。
高校生まで気仙沼で育ったのだけれど、その後に両親の都合で家は引っ越して
しまったために、気仙沼には帰るべき家がなかった。
だから、ほとんど帰っていない。
あえていえば、厄年の祝いでイベントの時に行っただけ。


子供の時の記憶というのは、甘酸っぱい。
その甘酸っぱい記憶が、とんでもない大災害のために無惨なものになっていた。


凄いよ。
びっくりする。
これほどまでに、還付なきほどに叩きのめされて無くなっているのか。
という現実である。
震災後は、文字通り瓦礫の山である。
たくさんの家やすべての町にあるものが津波に根こそぎ持っていかれて、
ぐちゃぐちゃに崩れて、またそのぐちゃぐちゃの破片が水で持ってこられて
がらくたの山になっているのである。
今までほとんど誰も見なかった光景である。
町じゅうがゴミの山になっている。





昨日は、ちょうど3月11日から一ヶ月をたった日程で
被災地の現地で、黙祷の祈りをしました。
ちょうど3月10日は1日を仙台で過ごし、11日も朝まで仙台にいたのです。
なんという偶然というか、必然。
その供時性に、またしても、か。と思う。


震災からちょうど一ヶ月たったその日に、育った故郷に帰った。



2時46分。
気仙沼市内に大きな音でサイレンが鳴った。
黙祷を促すサイレンだ。


一緒にいた、小学校の同級生である美人のUちゃんと黙祷をした。
小学校一年生の時に同じクラスにいた人である。


このUちゃんは、仙台でFM放送のパーソナリティをしている名物美人。
時々、この番組に出演させていただいている。
Uちゃんの実家におじゃまさせてもらい、こたつに入りながら黙祷をした。


たくさんのことを祈った。


たくさんの方が非業の死を遂げたこと。
その死の想いを、どうか昇華させてください。
悲しみでいっぱいの遺族の方の心を、どうか慰めてください。
少しでも悲しみをやわらげてください。

この未曾有の惨劇を、どうか生きている人たちが心を合わせて助け合い、
復興していけますように、勇気を与えてください。


自分のことは一つも祈らなかった。
祈る余裕がなかったというか、祈ることに考えがいたらなかった。
苦しんでいる人、悲しみでいっぱいになっている人。
そのことしか思いつかなかった。



黙祷の一分間、サイレンが鳴り止んだ。
それでもしばらく目を開けられなかった。
ようやく目を開けたら、UちゃんとUちゃんのお姉さんがハンカチで涙をぬぐっていた。



それから、3人で荒れ果てた気仙沼の町を歩いた。
雨が降ってきた。


まずは、Uちゃんが届けたいという支援物資を持ち商工会議所に届けに行った。
その後、傘をさしながら3人でぶらぶらと町を歩いた。
惨劇の町。


驚いたのは、Uちゃんの実家は全く被害がないのに、数100メートル歩いたその先から信じられないような被害地に変わるのである。
津波が押し寄せてきた道程がまざまざとわかる。


ここ、気仙沼の被害状況は、南三陸とはまったく違った光景であることを実感した。
南三陸はすべてが何もない。
ほぼすべて、90%といえるくらいまちの中心部がすっからかんに無くなっている。
気仙沼はそうではなくて、町の半分がきれいに無くなっているけれど、同じ高低の中でも位置によってまったく被害がない地域があるのだ。
町の構造がそうさせるのだろう。


300トンもの重量がある巨大なマグロ漁船が陸にいる。
こんな重量の船をこの先、どうやったら撤去できるのだろうか?


この途中に見てきた光景。
三陸線というJRの路線があるのだけど、その路線のレールが折れ曲がり、
道の反対側まで移動しているのを見た。
地面に埋められていた電車のレールが飴細工のように曲がり、道路の反対側まで
運ばれているんだよ。
地震で揺り動かされて、地面にあるレールが持ち上がり、
その後に津波のエネルギーで持っていかれたのである。
到底、人間の力では持ち上げられないレベルの重さのものだ。
支援のボランティアが何十人きたとしても動かせないレベルのものだよ。

きれいな海を囲む松林は、ほとんど無くなっていた。
生きている樹木は強いものだ。
でもその樹木すらバキバキに折られて無くなっていた。
千本松原と呼ばれていた松原がほとんど無くなっていた。
百年以上生きてきた松たちが、すべて一瞬で命を奪われたのだ。
今まで樹木が立っていて見えなかった景色が見渡せるようになっていた。
驚いたのは、松どころかすべての家、建物・構造物が無くなってしまったために
今まで一度も見えなかった遠くにある景色、大島がくっきりと姿を表していることだった。





世の中、まったく被害を受けていない地域とこんな惨劇の地域がある。
いったい、この違いって何なのだろう?
不思議な気分である。
平等って何なのか?
世の中の真実は平等ではない。
では、その違いが起きるのはなぜなのか?




子供の頃に過ごした場所に帰った。
あまりにもの変わり果てた姿に呆然とする。
ところどころ記憶がある。



しかし、そのほとんどが瓦礫と化している。
以前に支援に行った南三陸の光景を目にしているが、この瓦礫の光景、
慣れるものではない。
心の痛みは続く。
唖然とする。
個人の無力を感じる。
これをどうしたら復興できるのか?


はじめて、南三陸でこんな光景を目にした時。
途方に暮れた。
口があんぐり、である。
しゃべる言葉が、無い。
言うべき言葉が出ない。
何を言っても偽善というか、自分の正しい気持ちを伝えられる自信がない。


だから
何も言えないのだ。




ここでたくさんの方が亡くなったのだと思うと胸が苦しくなる。
亡くなった人を直接目にした人も多いはずだ。
その強烈で苦しい想いを想像すると、他人である自分でも痛みで覆われる。



気仙沼という土地は、ボクが小学校、高校と住んでいて育った土地だ。
その気仙沼に、家族の様々な事情があって離れ、今回、
ボクだけが単独で30年ぶりに訪れた。
そして、無惨に変わり果てた様相を目にした。



その土地に来て、いろいろ感じた。


もうすでにボクはここの住民ではなくなっているけれど、
縁があってここにいたし、ここに何かの支援をしたい。


そんなことを感じた。



一方。
ここに一緒に行ってくれた381と同級生の友達に心から感謝をした。


みんな言葉すくなだけれど、優しい。
困っている人を助けようという気持ちがある。

ありがとう。
みんなのおかげで、ボクも勇気をもらえている。



支援をして、帰りの車の中で、思った。
やっぱり、仲間がいるって素晴らしい。
人は一人で生きるのではない。
友達と、仲間と、縁のある人を大切にして、相手のことを考えて
生きるのが、良いことなのだ。


あたりまえのことなのに、あたりまえのことがぼやけてわからなくなっていた。
そのことを気づかせてくれた。
そのことは、いろんな本や、いろんな人たちが言い続けていることで頭では
知っている。
ところが、知っているつもりで
いつか知ったかぶりで知らなくなってしまっていたりする。


その感覚を取り戻そう。


人は、一人で生きているんじゃない。


いや

人だけじゃない。

この世に存在するすべてのものが、かってに存在しているのではない。



すべてが

つながっているのだ。



すべてが、連鎖し、

すべてが、互いに補って存在しているのだ。

そして、それらは、どれも尊い存在なのだ。












次に続けよう。


この当たり前のことを伝え


明日に続けよう。