◎「ま(間)」

「うめは(埋め端)」。「う」の音(オン)は退行化し「めは」が「ま」の一音になっている。「は(端)」は独立存在としてある部分域を表現しますが(→「は(端)」の項)、「うめ(埋め)」という語は、存在感があること、存在の生態的な動態感があることを表現し、自動表現(→「観客が会場をうめ」)も、他動表現(→「穴を掘り宝をうめ」)も、ある(→「うめ(埋め)」の項)。 「うめ(埋め)」が自動表現の場合、「うめは(埋め端)→ま」は、「鬼の居ぬ間(ま)に」のように、鬼が居ない、というものごとが動態的に存在化しているその独立存在としてある時空の部分域に、という意味になる。 「うめ(埋め)」が他動表現の場合、「うめは(埋め端)→ま」は、「木(こ)の間(ま)に」のように、木、というものが動態的に存在化させているその独立存在としてある(木に属していない)時空の部分域に、という意味になる。ものとものとの間の、それのない空域、こととこととの間の、それのない空域、です。 その「うめ(埋め)」をしている、されている、独立存在化している時間域や空間域―それが「うめは(埋め端)→ま」。「家の四畳半のま(間)」などは、家に自動的に存在している独立的部分域。

この「ま(間)」という語は「拍子(ヒャウシ)」との関係で、機会、や、折(をり)、という意味にもなる→「まがわるい」、「まにあわない」、さらには、「まぬけ(間抜け)」。この意味の「ま(間)」にかんしては「ひゃうひゃく」の項。

「紀の国の雑賀(さひか)の浦に出で見れば海人(あま)の燈火(ともしび)波の間(ま)ゆ見ゆ」(万1194:これは、波(なみ)という、ことのま)。

「吾(わ)が背子を大和へ遣りてまつしだす(麻都之太須)足柄山の杉の木の間(ま:未)か」(万3363:これは、杉の木という、もののま。「まつしだす」にかんしては「すぎ(杉)」の項)。

「波立てば奈呉(なご)の浦間(うらま:宇良未)に寄る貝の間(ま:未)なき恋にぞ年は経にける」(万4033:「宇良未」は、「うらみ(浦廻)」、と読まれるのが一般のようですが、「うらま」に、裏(心)間(ま)、がかかっているということでしょう。寄っても寄る間(ま)がない→かひ(貝・甲斐)がない。これは宴での歌)。

「月のかほみるはいむ事(月の顔見るは忌むこと)とせいし(制し)けれども。ともすれば。人まには月をみていみじく啼(なき)給ふ」(『竹取物語』:「ひとま(人間)」は、人のいないとき)。

「夕闇(ゆふやみ)は道たづたづし月待ちて行(い)ませ我が背子その間(ま)にも見む」(万709:あなたが月の出を待っているその間(ま))。

「御前ちかくは…………。次のま(間)に長炭櫃にひまなくゐたる人々…」(『枕草子』:平安時代ですから、「次の間(ま)」と言っても、敷居・襖や障子による区切りがあるわけではなく、空間を分けるなにものかが置かれている状態になっているか、明瞭にそれはなくても、別の空間、と意識される状態になっているということでしょう:「床(とこ)の間」)。

「…蜷(みな)の腸(わた) か黒き髪に いつの間(ま:麻)か 霜の降りけむ…」(万804:「いつのまにか」:独立的時空域)。

「またたくまに(瞬くまに)」。「ひま」(その項)。「まもなく」。

 

◎「ま(目)」

身体器官としての「め(目)」の母音A音化による情況化表現。目(め)の情況にあるもの。「まつげ(睫毛:目つ毛)」、「まぶた(瞼:目蓋)」、「まもり(守り:目守り)」、など。

◎「ま」

母音A音化による「め(目)」の情況化表現なのですが、一般的な視覚情況を表現する。「まへ(前):目へ」(「へ」は「辺・重」)。「まど(窓):目門」。