「ふし(節為)」。「ふ(節)」はその項参照。特異的に感覚感のあるそれ、対象として独律化する存在感のある発生感、を表現する(→「は(葉)」の項。その「H音の感覚感」(下記 ※))。「し(為)」は動詞連用形であり、「ふし(節為)」は、「ふ(節)」をすること・もの、を表現する。「ふ(節)」をすること・もの、とは、特異的に感覚感のあるそれ、対象として独律化する存在感のある発生感、をすること・もの、ということであり、あらゆるものやことでそれが言われる。植物「竹」の特異的に感覚感のあるそれとして、節(よ)と節(よ)が接合し対象として独立化する存在感のある発生をする部分たるものとして、「(竹の)ふし(節)」があり、丸太や板において対象として独律化し自足する存在感・発生感のある部分として、「(木板の)ふし(節)」があり、人の関節も表現し→「体のふしぶしが痛む」、ことにおいても、特異的に意味や印象のある、ことのその部分→「思いあたるふしがある」、それは動態のきっかけ、機会にもなり→「すこしうきさまをたにみせ給はゝ(少し憂き様をだに見せたまはば)なむ、思さますふしにもせむと(思い(慕情)を冷ますふしにもせむと)まもれと(見守れど・見続けるが)…」(『源氏物語』)、音やリズムの変動連続、それに付随する言語・すなわち歌詞、の特異的に印象化する部分になり→「ふし回し」、ある特色の曲やある曲自体→「浪花節(なにはぶし)」、「炭坑節(タンカウぶし)」にもなる。

(※)この「ふし(節)」の「ふ」は「ふれ(触れ)」の「ふ」であり、その起源は、呼気を、たとえば手に、あてれば肌感覚があり、見えないが、なにかがそこにある。それが、ないが、そこに現れる発生感も表現する。その発生が動態として現れることやものが「ふし(節)」なわけですが、その、現れる自己充足に視点をおきそれを発生動態表現すれば「ふし(伏し)」であり、客観的に環境との関係で現れが、発生が、表現されればここでの「ふし(節)」。

「…八重波に 靡(なび)く玉藻の 節(ふし)の間も 惜しき命を…」(万4211:「玉藻(たまも:海藻)の 節(ふし)」とはなんなのでしょうか。海松(みる)のような、枝分かれの多いもののその短い枝が、短い節の間、か)。

「此(この)子を見つけて後に竹とるに。ふしを隔(へだ)て。よごと(節(よ)毎)にこがね(黄金)ある竹を見つくる事かさなりぬ」(『竹取物語』)。

「節 ……和名布之 竹中隔而不通者也」(『和名類聚鈔』)。

「杣山(そまやま)の あさき(浅木)のはしら ふししけみ(節茂み) ひきたつへくも なき我身かな」(『新撰和歌六帖』:節(ふし)の多い木(柱)が「あさき(浅木)」と言われていますが、樹木として経験の浅い部分、という意味でしょうか。経験が深ければ節はその柱の表面に見えなくなる)。

「拳一肘ハ指ノ中ノ節ヲカカムルソ」(『六物図抄』:これは指の関節の意)。

「絲 ………和名伊度 蠶(蚕)所吐也……………纇 ……伊度乃布之 絲節也」(『和名類聚鈔』:糸のところどころ小さな瘤(こぶ)のように膨らんだ部分)。

「(大君亡き今は)おかしきことあはれなるふし(あはれだ、という思いが独律的に発生したこと)をもきゝしる人もなきまゝに(聞いて知ってくれる人もなきままに)よろつかきくらし…」(『源氏物語』)。

「「よきふしなり」ともおもひ給るに(よい機会だと思ったが)…」(『源氏物語』)。

「娑羅林(今様の一種)、早歌、高砂、雙六なとやうの(など様の)哥(歌)は我にもならひたりき。うたふにふしいとたちろかす(歌ふに節いとたぢろがず)」(『梁塵秘抄口伝集』:歌におけるその音楽性のあり方にたぢろぐことはない)。

「一 クセマヒ(曲舞)ト小哥(歌)ノカハリメ。クセ舞ハ立テマウユエニ、ヒヤウシ(拍子)ガ本也。クセ舞ニハワウシユ(横主)トワケテウタウト(歌ふと)心得ベシ。タダウタイハフシヲホンニス。アイヲント(「あい」を「ん」と?)ウタフト先(まづ)心得テ、フシヲモツクヘシ」(『世子六十以後申楽談儀』:「ワウシユ(横主)」は謡曲での声種であり、横(ワウ)は息を吐きながらの太い声、主(シュ)は息を引き入れつつの細い声)。