「はやく」という動態形容は、ある動態を形容するだけではなく、その動態による社会的変動・情況変動たる経過の意外感・感銘も表現する。「はやく起きる」は、「起きる」という動態が運動スピードとして「はや」なだけではなく、社会的あり方として経過に意外感や感銘が感じられることも表現する。すなわち、動態経過だけではなく、情況経過も表現する。通常は九時に起きている人が七時に起きれば、それは七時に起きるという現実経過が九時に起きるという記憶経過に異なり意外による感銘が起こり、「へあや(経あや)の状態で起きた→はやく起きた」という表現になる。

「…心もまどはして、この使に問へば、「はやう(はやく)御髪(みぐし)おろし給う(ふ)てき……」と言ひて泣く時に…」(『大和物語』:「御髪(みぐし)おろす」は、尼になることの間接的表現。直截に表現すれば「はやく尼になりき」。俗のままでいるという経験経過に対し、尼になっているという現実経過が異なりを起こし驚きや感銘が起こっている)。

「『(雪は)はやく失せ侍りにけり』」(『枕草子』:雪はまだある、という想的期待経過に対し、もう解けて消えているという現実経過が驚きと失望の感銘を起こしている)。

「はやくすみける所にてほとときすのなきけるをききてよめる」(『古今和歌集』詞書:昔そこに住んでいた経験経過と今はそこに居ない現実経過に矛盾があり、その矛盾の思いでホトトギスの声を聞き…)。

「…かくてその夜、猿失せにけり。朝に求むれども、すべて行方(ゆきかた)を知らず。 はやく、この猿、他の郡へ行きてけり」(『古今著聞集』:猿はいつものようにそこにいると思っている僧の経過と、どこにも居ないという現実に異なりが起こっている。その異なりが起こっている状態で、この「はやく」は、もうすでにその時には、のような意になる)。

「日ごろこもりたるに(幾日も、このところ(寺に)籠っていて)、昼はすこしのどかに、はやくはありし」(『枕草子』:これは、はやくは、昼はすこしのどか、ということ。以前は昼は少しのどかだった)。

「早く、此の比丘、十二年の間、頭を剃らざりければ、長髪に成て、自然(おのづから)に還俗し給にけり」(『今昔物語』巻三第十七話「羅漢比丘為感報在獄語」:比丘(僧)は頭を剃るという一般の認知経過を前提として、羅漢(聖者)たる比丘(僧)が牢にそのままいると認知していた(思っていた)が、現実の経過では十二年の間頭を剃っておらず(髪はのび)、自然(おのづから)に還俗してしまい(僧ではなくなり(優婆塞(うばそく:在俗修行者)になり)、ということ。つまり、過去の経過(経(へ))が自分が思っていた経過(経(へ))と相違し驚きが起こっている。それが「へあやく(経あやく)→はやく」。これは、羅漢(聖者)を投獄したら優婆塞(うばそく:在俗修行者)になってしまい、どういうことだと問い詰めていたら羅漢(聖者)が出て来て光を放ち天へあがっていった、という話)。

「はやくの守(かみ)の子」(『土佐日記』:紀貫之(きのつらゆき)は土佐の国守であり、その任を終えた帰路、『土佐日記』を書く。「はやくの守(かみ)の子」は、今の、現実の、守(国守)の子ではないが、記憶経過としての国守の子。つまり、紀貫之(きのつらゆき)以前の国守の子、ということでしょう。以前から、そして今も、国守の子であれば「はやくからの守(かみ)の子」になりそうです)。

 

「はやくBなり」、「はやくBにあり」、「はやくBにはあり」、といった表現がなされる場合、(その認知のなかった)Bであるという現実が (自分にはなかった「Bである」という経過(経(へ)が) そこにあり、意外感、驚き、感銘を起こしていることが表現される。

「「見し心地する木立かな」と思すははやくこの宮(邸宅)なりけり」(『源氏物語』:見た覚えのある木立だと思ったらこの宮だった。B(この宮(邸宅))という認知経過はなかったが現実経過はB(この宮(邸宅))だった)。

「「此れも早(はや)う猿也けり」と見て、心安く成ぬ」(『今昔物語』:猿であるという認知はなかった。猿神という恐ろしいものかともおもったが、現実はただの猿だった)。

「はやく跡なきことにはあらざ(る)めりとて…」(『徒然草』五十段:なにごとかはあるだろうと思いつつ…。「跡なきこと」は、それを追跡すれば確かに何かを得られる痕跡の無いこと、何かを得られる要素が何も無いこと。「跡なきことにはあらざ(る)めり」が思いの経過であり…そう思いつつ…ということ(そう思いつつ人をやって確かめさせたが、現実の経過はなにもなかった(鬼が出た、と騒いでいたのだが、なにもいなかった))。

 

「吉野川 よしや人こそつらからめ はやく言ひてし ことは忘れじ」(『古今和歌集』:いま、現実の関係(経過)はつらいものになっている。しかし、そんな現実はあるのか?と思う記憶に、思いに(その経過に)、今もあるあの人が言ってくれた言葉はけして忘れない)。

「にくきもの………わがしる人にてある人の、はやう見し女のことほめいひ出でなどするも、程へたることなれど(年月の過ぎたことだが)、なほにくし」(『枕草子』:今の現実の世界では「見て」いない、しかし、年月は過ぎているが、思いでの、想の世界で「見て」いる女、を今見ている女に誉(ほ)め、聞かせる)。

「花ぐはし 桜の愛(め)で こと愛(め)でば はやくは(波椰區波)愛(め)でず 我が愛(め)づる子ら」(『日本書紀』歌謡67:こんなに愛でる思いが沸くならいっそのこと先走って愛でるのではなかった(もうそれ以上の愛でる思いを表現する方法がない。今現実に愛(め)でること(その経過)と以前に愛(め)でたその記憶たる思い(その経過)に不調和が起こっている。愛(め)でたくともそれをどう表現すればよいのかわからないほど思いは強くなっている。「こと(同)~ば」は「こと(同)」の項)。