「はや」は「へあや(経あや)」。「はやし(早し・逸し)」はそれを語幹とする形容詞表現。語頭の「へ(経)」は経過が表現される。「あ」は、驚きの発声。「や」は未知への驚きと詠嘆を表現する発声→「弁慶が大長刀を打ち流して、手並みのほどを見しかば『あや』と肝を消す」(『義経記』)。「あやかしこね」という神名もある。「へあや(経あや)→はや」は、経過に意外感や感銘が起こっていること、自分が経験している経過が『あや』と声を発することであること、を表現する。現実経過を、それを認知し自分の思いや考えとする認知処理の整わない状態にあることを表現する意外感や感銘です。整わないが、それが現実だ…という感銘。簡単に言えば、記憶や想と現実が相違している。記憶や想の経過(経(へ))と現実の経過(経(へ))が異なり、整合し整わない。その場合、現実が記憶や想 (それによる考えや思い)よりも程度として効果的であることもあれば、あるとは思っていなかったが現実には効果があったり、あると思っていた(いる)効果が現実にはない場合もある(「この植物は成長がはやい」(現実が想よりも効果的)、「その実は収穫するにははやい」(まだ熟していない:現実が想よりも効果がない))。経過は、ある個別的主体の動態経過である場合も、社会的変化たる情況経過である場合もある。つまり、動態や情況の進展が、記憶や想のそれと現実のそれが相違している。それが「へあや(経あや)→はや」。
「婦負川(めひがは)の早き(はやき:波夜伎)瀬ごとに篝(かがり)さし八十伴(やそとも)の男(を)は鵜川(うかは)立ちけり」(万4023:「せ(瀬)」と表現される水流動態の経過が婦負川(めひがは)の現実たるそこのそれは、川の瀬として一般想的にあるそれ(自己のそれ)よりも単位時間の移動距離は長く(単位距離の移動時間は短く)勢いもある)。「婦負川(めひがは)」は後の富山県でしょう)。
「昨日(きのふ)といひ けふとくらして あすかかは 流れてはやき 月日なりけり」(『古今和歌集』:川の名にある「あす」と「明日(あす)」がかかっている。時の流れの経過、同じ日数や年数の時間経験感覚、が記憶や思いの世界のそれと現実世界のそれが相違する。現実世界でその時間間隔が短くなっていく)。
「…久(ひさ)ならば いま七日(なぬか)ばかり 早(はや)くあらば いま二日(ふつか)ばかり あらむとぞ」(万3318:推測たる時間経過として、あることが起こるまでに要する時間は、多くの日がかかるなぁ、と思う状態であるなら七日ほど、それに相違し、その効果発生に驚きと感銘が起こる状態であるなら(はやくあるなら)二日ほど)。
「たきつせの はやき心を なにしかも 人めつつみの せきととむらむ」(『古今和歌集』:経験的な(普通の)心情変動経験と現実の心情変動経験が相違し、同じ運動変化の時間が短くなっている、意外感・感銘(驚き、不安、うれしさ)が起こり昂進した、状態の心)。
「イミシクハヤキ毒・附子(ぶす)ヲソノヒモロキノウヘニスリテヲキテ…」(『万葉集注釈(仙覚抄)』巻七:万2657の歌にかんする解説。「ひもろき」は、供物→献上された食べ物、という意味で言っている。「はやき毒」は、それによる経過感銘的な、想効果と現実効果が相違し効果的な、つまり毒性の強い、毒)。
「くろかねの つめのつるきの はやきもて かたみにみをも ほふるかなしさ」(『聞書集』:これは西行によるものであり、「地獄ゑを見て」という詞書のある歌。「はやき剣(つるき)」は剣として効果的な剣。「かたみ」は「片身」か。身の縦割り半分)。
「ちはやぶる 宇治(うぢ)の渡(わたり)に 棹(さを)取(と)りに はやけむ(波夜祁牟)人(ひと)し 我(わ)がもこに来(こ)む」(『古事記』歌謡50:「もこ」は絶体絶命の危機的状態にあることを意味する→「もこ」の項。「棹(さを)取(と)りに はやけむ(波夜祁牟)人(ひと)」は、舟の操作に効果的な人。それに長(た)けた巧みな人)。
「梅花(ばいくわ)はなやかに今めかしう、すこしはやき心しらひを添へて、めづらしき薫り加はれり」(『源氏物語』:「心しらひ」は、気づかいや配慮。「はやき心しらひ」は、効果的な心得た気づかいや配慮)。
「七月七日、堪へがたく暑きに、此の事も果てにしむつかしさに(重病でそんなことをするのはとても困難な状態で)、髪洗ふほどに、いかにしたりしにか、(建春門院は)心地かぎりなくそこなひて、絶え入るなどいふばかり、人々も騒ぎたりしつとめて(その翌朝)、あるかなきかの心地するに、日頃ただ同じ御事とのみありつる冷泉殿の返事に、はやくにておはしませば、申すばかりなし、とばかりあるを見る心地は、何にかは似たらむ…」(『建春門院中納言日記(健寿御前日記・たまきはる)』:建春門院中納言、は、建春門院(平滋子)の宮廷女房。冷泉殿は、譲位天皇、ということであり、後白河天皇であろう。建春門院はその譲位後の后。「はやくにて」は、病が効果的で…ということであり、もはや死を予測させる危篤状態なのである)。
「京都にこざかしき仁共の集まりて、内々申し候ふなるは、『此の君の御位(即位は)、余りに早し。いかがわたらせ給はむずらむ』と謗(そし)り沙汰仕り候ふなるは」と申しければ」(『(延慶本)平家物語』:「余りに早し」は、現実経過に期待的想経過ほどの効果がない、という不満表明。ただし、政治的な利害関係による不満表明もありうる。これは、平慈子(たひらのじし/しげこ:建春門院)の子が天皇(高倉天皇)になったという話。当時7・8歳か。3・4歳で皇太子になっている。天皇は後白河天皇→二條天皇(在位8年)→六條天皇(在位約2年半(生後8カ月ほどで即位))→高倉天皇と続く)。