「はえ(映え)」(その項)の他動表現。映えた・映える状態に、すること。新鮮な存在感を生じさせること。歌や踊りを傍から映える状態にすることも「はやし(囃し)」という。

「…我が毛らは み筆(ふみて)はやし(波夜斯) 我が皮は み箱の皮に 我が肉(しし)は み膾(なます)はやし(波夜志) 我が肝(きも)も み膾(なます)はやし(波夜之) 我がみげは み塩のはやし(波夜之) 老いたる奴(やつこ) 我が身一つに 七重花咲く 八重花咲くと 申(まを)しはやさね(賞尼) 申(まを)しはやさね(賞尼)」(万3885:毛は筆を映えさせる(毛で立派な筆になる)、肉は膾(なます)を映えさせる(肉は旨い膾になる)、胆(きも)も膾(なます)を映えさせる、内臓(みげ)は塩を映えさせる(旨い塩漬けになる)、…もてはやしてくれ。これは鹿の身になっての歌。身を捨てて皆を幸福にしている私を認めてくれ(と鹿が言っている)ような歌ですが、この歌は「乞食者詠(ほかひびとのうた)」とあり、乞食(コツジキ)の大道芸人のような者がこういう歌を歌っていたのでしょう。ただし、古代仏教の辻説法、あるいは、托鉢の際の口上(コウジャウ)、が万3885や3886のようなものだった可能性は絶無ではない。古く、「乞食」は後の「托鉢(タクハツ)」を意味した。「(仏ノ)乞食出城」といった表現は『東大寺諷誦文稿(フウジュブンコウ)』(9世紀早期)にもある。→「いとこ(愛子)」の項)。

「この殿はをりふしごとに必ずかやうの事を仰せられて、ことをはやさせ給ふなり」(『大鏡』)。

「傀儡子(くぐつ)共(ども)、其の気色を見て、詠(うた)ひ吹き叩き増(まさり)て、急に詠(うた)ひ早(はや)す」(『今昔物語』)。

「よろづの楽、笛の音をはやし、もろもろの面白き声を整へたり」(『宇津保物語』)。

「さぎちやうは ………「法成就の池にこそ」とはやすは、神泉苑の池をいふなり」(『徒然草』)。

「もてはやす」。「はやしたてる」。「祭囃子(まつりばやし)」。