◎「はし(愛し)」(形シク)
この「は」は感嘆のため息・吐息の擬態。そんな感嘆のため息・吐息がでるような心情にあることを表現する。このため息・吐息は長いものです。正確に記せば「ははし」でしょう。
「昔こそ外(よそ)にも見しか我妹子が奥つ城(き)と思(も)へばはしき(波之吉)佐保山(さほやま)」(万474)。
「雪の上に照れる月夜に梅の花折りて送らむはしき子もがも」(万4134:これは宴席での雪月梅を織り込んでの歌)。
◎「ばし」
「ばかし」。「か」の音(オン)は飲み込まれるように消えている。「ばかし(助)」(その項・8月1日)は「ばかり(助)」(その項・8月6日)の変化であり、「ばかり(助)」は思量が自足し進展しないことを表現しますが、「ばかし」の略体たる「ばし」は、思量が自足し進展しない動態にあることを表現する。思いや考えがあるものやことだけになっていく。
「『むくろに手ばし負ひたりけるか』」(『古今著聞集』:「むくろ」は身体ですが、この場合は首から下の胴体を言い、それも、死体。遺族が死んだ家族の頭部を受け取ったのですが、そこになんの傷もなく、これを言っている。「手(て)」は傷のこと。読み方としては 「むくろに手(傷)、ばし(ばかし)負ひたりけるか:むくろに傷ばかり負ったのか。他のなにかは負わなかったのか」、ではなく、「むくろに手ばし、負ひたりけるか:むくろに傷ばかし、むくろに傷という事象が自己充足しそれ以外の進展なく、(傷を)負ったのか」。つまり、頭部になんの傷もないが、胴体にだけ傷をおったのか、と疑問を呈した)。
「籠(ろう)をばし出でさせ給い候わば、とくとく(疾く疾く)きたり給え」(『日蓮遺文』「土籠御書」:籠(牢)を、という思いや考えが自足し、他へ進展しない状態でお出になったら。これは、籠(牢)さえ出たら、籠(牢)を出ることさえあったら、という意味になる)。
「『…こればし出だし参らすな』」(『平家物語』:「こればかし出だし参らすな」と言っているわけですが、「これ」とは、明日そこを出て出家しようと思っている小督(こがう:女性)とそれをめぐる諸事情であり、その事情だけが自足し他の事は思われない状態になり、小督(こがう)様をここからお出しするわけにはいかない、と言っている。この「こればし」は、「ほかのことならともかく。こればかりはそうはいかない」などの「こればかりは」に表現は似ている)。
「念仏もうすに(申すに)化仏をみたてまつるということのそうろうなるこそ、「大念には大仏をみ、小念には小仏をみる」といえるが、もしこのことわりなんどにばし、ひきかけられそうろうやらん」(『歎異抄』:そのことわりばかりになり、それがすべてとなり、の意。「大念には大仏をみ、小念には小仏をみる」にかんしては、『大方等大集経』巻第四十三 「日蔵分念佛三昧品」に「小念見小大念見大」とある)。
「其日(その日)軈(やが)て追(おふ)てばし寄(よせ)たらば、義貞(よしさだ)爰(ここ)にて被討(討たれ)給ふべかりしを」(『太平記』:「軈(やが)て」は、そのまま、のような意。そのままただ追うことに専念し寄せたらば、ということ)。
「殿はし御下りあるか」(『柏崎』「(世阿弥筆本)謡曲」:思いや考えが殿に限定化されつつ、殿への思いが高まりつつ、殿はお帰りになったか、と言っている)。
「必ず(絶対に)ともに沙汰ばし致すな」(『戻端脊御摂(もどりばしせなにごひいき)』「歌舞伎」:この「沙汰(さた)」は、俗語化し、世の評判として話題にしたり、噂したりすること。これを言っている頼信を髭黒(ひげくろ:人物名)と仲間だという沙汰はするな(けして仲間などではない)、ということ)。