「は(端)」の動詞化。「は(端)」はH音の感覚感とそのA音の情況感により情況的感覚感・表面感・平面感を表現し、対象を(たとえば靴を)自己その他にそうした情況的感覚感・表面感・平面感を生じる状態にすることが「はき(履き・佩き・帯き)」。「靴をはく(履く)」(靴を身につけ身に現れる状態にする)。「刀をはく(佩く)」。弓の弦を弓にかけることも「はく」という。矢の成形、矢を作ること、を意味する「はぎ(矧ぎ)」にかんしてはその項。この「は」はそれが情況動態を表現するR音が活用語尾になった場合「はり(張り)」になり、自動表現では「はれ(腫れ)」。他動表現「はけ」。

ズボン、スカート、靴下、靴といった、下半身に身につけるものは「はき」になり、シャツ、全身のワンピース、上着などは「きる(着る)」になるのはなぜなのかは、「き(着)」は自己への帰属であるのに対し、「はき(履き・佩き・帯き)」は表面装着だから。身体下部は身体上部が認識する客観的な対象になるということ。

「やつめさす 出雲健(いづもたける)が 佩(は)ける(波祁流)刀(たち) 黒葛(つづら)多(さは)纏(ま)き さ身無しにあはれ 」(『古事記』歌謡24)。

「信濃道は今の墾(は)り道刈りばねに足踏ましむな(布麻之牟奈)沓(くつ)はけ(波気)我が背」(万3399:「布麻之牟奈」は一般に「布麻之奈牟(ふましなむ)」の誤記であるとして、そう読まれている。原本(西本願寺本)は「布麻之牟奈」になっている。「ふましむな」は、踏ましむな、であり、踏む、の、~しむ、による使役の終止形。「な」は禁止。つまり、意は、( (刈りばねに)足を)踏むことをさせるな。「かりばね」は、刈り刃根。刈り取り鋭く尖ったようになっている木の根。では、なにへの使役なのかというと、自己をそうさせる、という、過失が使役で表現されている。「波気(はけ:履け)」の「気(け)」は乙類表記であり、これは命令形ではなく、已然形。履(は)いたら…、という曖昧な表現であり。「沓(くつ)をはいては…」と、女が控えめに提案している。「はけ」と命令しているわけではない) 。

「陸奥(みちのく)の安達太良(あだたら)真弓(まゆみ)はじき置きて せらしめきなば(西良思馬伎那婆) つらはかめかも(都良波可馬可毛)」(万3437:東国の歌。この歌は一般に、「はじき」を「はづし(外し)」の意に解し、「西良思(せらし)」は「そらし(反らし)」の東国方言と言われその意に解され、弓の弦(つる)を外(はづ)したままにして(弓を)反(そ)らせたままにすれば弦(つる)はかけられるだろうか、といった、意味のよくわからない解釈がなされている。この歌、「はじき」は「はじき(弾き)」であり、「はじきおきて(弾きおきて)」は、弾(はじ)いたままにしておいて(ただ弾いて音を出しただけで)。「せり(迫り)」という語は動態勢力を昂進させることを表現し、この「せらし」はその使役しょう。意味は、駆り立てる、に似ている。「せらしめきなば(西良思馬伎那婆)」は、「駆(せらし)女(め)男(き)音(ね)這(は)はば」。意味は、気持ちを駆りたて男と女の音(ね)が響くなら、双方の思いが昂(たか)まるなら。それに続く部分は、「弦(つら)努果(はか)女(め)かも」。意味は、(その弓の)弦(つる)のなし得る成果は女か?(そんな弦の用い方で女は得られるのか?)。末尾の「も」は詠嘆。つまり、この部分は一般に「弦(つら)著(は)かめかも」と読まれ、この歌は動詞「はき(履き・佩き・帯き)」の用例としてあげられるわけですが、そうではないということ(「恋ひずあらめかも(安良米可毛)」(万4371)といった表現はありますが、その場合の「め」は乙類表記になり、この万3437の「馬」は甲類表記)。歌全体の歌意は「弓を弾(はじ)きおいて、弾(はじ)いて音を出すことだけをして、(思いを)駆りたて、女と男の音(ね)が響いたら、それで女は得られるのかしら?(弦(つる)の役割はそうではないでしょう(それは獲物を射ることでしょう))」。つまり、これは女の歌であり、女はある男に思いを寄せている。しかし、その男は思いを駆りたてるようなことを言うだけで、なにもしない。弓を弾いて音を出すだけ。男なら男らしく射なさいよ。それが弦の役割よ…ということ。「安達太良(あだたら)」は地名ですが、「あだ(徒)」「あたら(可惜)」がかかっているのかもしれない)。