◎「のり(海苔)」
「なよより(なよ寄り)」。「なよ」は、構成力は空虚になり活性力は衰化していることを表現し、自己の構成や動態などなく環境の動きのままに流れ動いているような状態であることを表現する(→「なよ」の項・3月4日)。「より(寄り)」は接近、さらには接着することですが(→「より」の項)、この「なよより(なよ寄り)→のり」と言われるものは、構成力は空虚であり活性力は衰化した状態で自己の構成や動態などなく環境の動きのままに流れ動いているような状態で何かに接着している。そんな状態で繁茂している。そんな状態で繁茂している藻(も)の類が「なよより→のり」と呼ばれている。この語は、(とりわけ海の)藻(も)の類の名。これは食用になり、食品の名でもあるのですが、コンブやワカメのような、「のり」という名の特定の海草や海藻があるわけではない。採取され食用にされている藻(も)が「のり」なのです。したがって。生物学的には「のり」には何種かの藻(も)がある。
「のり」を食用にすることは『常陸風土記』にも記述があり(下記)、相当に古い。それ以前、いつごろから食べているかはもちろん不明です。やがてこの「のり」は、後世、四角い簀子(すのこ)状のものに広げならべ干されたり、紙漉(かみすき)の要領で整形し干したり、といったことも行われ、江戸時代、すなわち、1600年代以降には相当な規模で商品として流通するようにもなる。さらに後世には、海面に網を張りここに「のり」を接着繁殖させる大きな規模の養殖もおこなわれるようになりますが、これは1900年代中頃以降のこと。「のり」の胞子から最終的な葉体までの中間過程たる生体の一つとしての「糸状体」と呼ばれる中間成長体が1900年代中頃に発見確認されるのです。それを利用して「のり」を網などに接着させ成長させることが効率よくおこなわれるようになった。それ以前の養殖は、「のり」が付着しそうなものを置いたり立てたりして待つ、たとえば。網を張ったとしても、「のり」のついた網や縄などをそこに重ねおいて増えることを期待する、といった生産効率のよくないものだったでしょう。つまり、「のり」の養殖はそれ以前からおこなってはいたであろうけれど、1900年代中頃から生産効率がよくなった。
「倭武天皇巡幸海辺行至乗浜(のりはま)。于時浜浦之上多乾海苔 俗云乃理 由是…」(『常陸風土記』(700年代前半):「倭武天皇」はヤマトタケルノミコト)。
「紫菜 …………和名無良佐木乃里 俗用紫苔」(『和名類聚鈔』)。
「海糸菜 乃利」(『新撰字鏡』)。
「苔 ノリ 紫―…………海― 即海藻也」(『色葉字類抄』)。
「『かまふな。おれが事よりうぬが、ソリヤ海苔がこげらア』」(「滑稽本」『東海道中膝栗毛』:これはトロロにかける青海苔(あをのり))。
◎「のり(糊)」
「なほり(直り)」。崩れた物(一般的には衣服や布)の形状が回復するもの、の意。これは飯を練りつぶし様々な濃度の粘体・粘液状にしたものですが、その元来の用途は、服の糊付け、すなわち、糊により服を成形することです。これが、とくに紙をなにかに、や、紙どうしを、接着させる、接着剤としてももちいられる。接着剤としてもちいるのは応用ですが、後世ではそれが「のり(糊)」の主な役割になっていく。「口(くち)を糊(のり)する」という表現がありますが、これは、中国語で「糊(コ)」は米を多量の水で煮、半流動状態になったものを意味し、これを啜(すす)って生活する「糊口(ココウ)」という表現があり、「のり」の漢字表記が「糊」であることから、「口(くち)を糊(のり)する」が経済的に厳しい情況で生活していくことを意味し言われるようになった。
「七月一日下米参㪷
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又下白米弐升 右、合白土能理汁料、附私部有人」(『正倉院文書』「造石山寺所食物用帳」((文書・継文名) 年月日 天平宝字6(西暦762)年3月8日):「㪷」は「斗」の異体字。この「能理汁」は米から作られ、「海苔汁(のりじる)」ではない)。
「糊 ノリ 著衣(コロモニツクル(ころもにつける))」(『雑字類書』(室町時代中期))。
「絹粥 ノリ」(『伊呂葉字類鈔』(1817年))。
「糊代(のりしろ)」(紙どうしの接着などの際、糊を塗る部分)。「(タイヤのパンク修理にもちいる)ゴム糊(のり)」。