◎「のち(後)」
「にをちゐ(に復ち居)」。「に」は動態の状態を表現する助詞になっているそれ。「をち(復ち)」は回帰することを表現する。過去が回帰し若返ったり、飛んで行った鳥が戻ってきたりする(→「をち(復ち)」「おち(落ち)」の項)。「ゐ(居)」は、ある存在状態にあること。たとえば「法を聞きつるのちは暁(あかとき)の如し」と言った場合、「法を聞きつるのちは…→法を聞きつるに復(を)ち居(ゐ)は…」、ということであり、法を聞いた、という状態に回帰している居(ゐ)は…、ということであり、法を聞いた、という状態は去り、そしてその去った状態が回帰している状態にあることが表現される。それが「法を聞きつるのち」の状態。そして、「のち」が、ある情況が去った情況にあることが表現されるようになる→「のちのことも良く考えて…」。
「未聞法 以前(サキハ)如夜 聞ツル法 以後(ノチハ)如暁」(『東大寺諷誦文稿』平安初期点:法ヲ聞カヌヨリ以前(サキ)ハ夜ノ如シ。法ヲ聞キツルヨリ以後(ノチ)ハ暁ノ如シ)。
「笹葉(ささば)に 打(う)つや霰(あられ)の たしだしに 結寝(ゐね:韋泥)てむ後(のち:能知)は 人(ひと)は離(か)ゆとも…」(『古事記』歌謡80:「韋泥(ゐね)」は一般に「率寝」と解されている(→「ゐね(結寝)」の項) 「たしだしに」は、十分に、の意(その項))。
「吾が里に大雪落(ふ)れり大原の古りにし里に降らまくは後」(万103)。
「…ぬえ草(くさ)の 女(め)にしあれば 我(わ)が心(こころ) 浦渚(うらす)の鳥(とり)ぞ 今(いま)こそは 我鳥(わどり)にあらめ 後(のち:能知)は 汝鳥(などり)にあらむを…」(『古事記』歌謡3)。
「娘子(をとめ)らが後(のち)の表(しるし)と黄楊小櫛(つげをぐし)生(お)ひ更(かは)り生(お)ひて靡きけらしも」(万4212:娘子(をとめ)らの塚に木が生ひ、それは黄楊の木だったといことか)。
「鴨川の後瀬(のちせ)しづけく後(のち)も逢はむ妹には我れは今ならずとも」(万2431:現地点を基準として下流の流れを「のちせ」と言っている)。
「是(ここ)を以(も)て、火酢芹命(ほのすせりのみこと)の苗裔(のち)、諸(もろもろ)の隼人(はやひと)等(たち)、今(いま)に至(いた)るまで…」(『日本書紀』:この「のち」は、子孫)。
◎「のづち」
「のつちつひ(野土つ霊)」。「つ」は助詞。「ひ」は、「たましひ(魂)」にもある「ひ」ですが、精霊とでもいうようなものです。「のつち(野土)」の「ひ(霊)」ということですが、野の精霊とでもいうようなもの。空想を刺激し(とくに、蛇のような)空想上の動物とでもいうようなものが言われたりもする。
「次生野神・名鹿屋野比賣神、亦名謂野椎神」(『古事記』)。
「蝮 ……ハミ…ノツチ」(『類聚名義抄』)。