◎「ねめ(睨め)」(動詞)
「にえめ(煮え目)」、煮えるような思いの目付き、の動詞化。意味は、そうした思いで人などを見ることですが、そうした心情になること、いうなれば、思いの中でそうした思いで見ること、も言う。「にらみ(睨み)」にも意味は似ている。
「私を急度(きつと)ねめられたつらは、其まゝの鬼瓦で御ざる」(「狂言」『縄綯』)。
「これらが物語に「聖覚の」と言ふを、供なる力者法師聞きとがめて、「おやまきの聖覚や、ははまきの聖覚や」など、ねめつつ見返り見返り憎みけり」(『古今著聞集』:これは、聖覚法印の説経の話をしている職人たちのそばを輿(こし)にのった聖覚が通りかかった、という話ですが、職人たちの話が誤謬に満ちたものであり、供たる者たちがそれを聞き、憎んだということか。供たちは「おやまきの聖覚や、ははまきの聖覚や」などと言ったという。「あいつらが言っているのは、おやまきの聖覚、だ」ということでしょう。「おやまき・ははまき」は語義未詳とされている語ですが、これは「親薪・母薪」であり、念仏・他力は親を薪(まき)にして焚いて自分だけが暖まろうとするようなものだ、ということか(聖覚は念仏・他力系と評価されているわけです)。自力では親孝行も功徳だ、ということ)。
「とがもなき祐経を、おやのかたきとねめむより…」(「幸若」『夜討曽我』)。
◎「ねもころ(懇)」
「ねもころ(根もころ)」。「もころ」は、そのもの、の意→「もころ」項。「ね(根)」は、完了や安定、ものごとの、ものごとがものごとそれとして完了・安定している基底、を意味する。「ねもころ(根もころ)」、すなわち、完了、安定しているそのもの、とは、たとえば、「に」で動態の状態が表現され「ねもころに~」と言った場合、「~」で表現される動態が、その動態として完了・完成した、その動態そのものとして~、という表現になる。たとえば「ねもころに言ひ」なら、「言ふ」という動態として完了・完成した、「言ふ」という動態そのものたる「言ふ」がなされる。「ねもころごろに」という表現もあり、これは「ねもころもころに」であり、「もころ」が繰り返され強調されている。この語は、「ねむころ」のような音(オン)を経、「ねんごろ(懇)」になる。また、「ねんごろをし」という表現もある。
「おしてる 難波の菅(すげ)の ねもころに(根毛許呂尓) 君が聞こして(あなたが私に聞くことを生(お)ほして) 年深く 長くし言へば(『あなたと年深く、長く』と言ったから』)…」(万619:つまり、プロポーズがあったわけである)。
「…鶴(たづ)が鳴く 奈呉江(なごえ)の菅(すげ)の ねもころに(根毛己呂尓) 思ひ結ぼれ 嘆きつつ 我が待つ君が…」(万4116)。
「懇 ……ネム(モ)コロ」(『類聚名義抄』:「ム」の横に「モ」とも書かれる)。
「あしひきの山に生ひたる菅(すげ)の根のねもころ見まく欲しき君かも」(万580)。
「菅(すげ)の根の ねもころごろに(根毛一伏三向凝呂尓)我が思へる 妹(いも)によりては」(万3284:「一伏三向」の読みにかんしては「かりうち(樗蒲)」の項)。
「むかし、惟喬(これたか)の親王(みこ)と申すみこおはしましけり……………………狩はねむごろにもせで、酒をのみ飲みつゝ、やまと歌にかゝれりけり」(『伊勢物語』)。
「思ひわびて、ねむごろにあひ語らひける友だちのもとに…」(『伊勢物語』)。
「世俗の虚言(そらごと)をねんごろに信じたるもをこがましく」(『徒然草』)。
「つねつねねんごろにしたるともたちきて…」(『鹿の巻筆』)。
「主(しう)の子を念比(ねんごろ)して晝(ひる)ばかり(昼ごろに(明るいところで))皃(かほ)見ると」(『男色大鑑』)。