「ねた(妬)」を語幹とした形容詞ですが、意味は「ねたみ(妬み)」の語幹が形容詞化した状態になり、それは形容詞であり、表現は客観的であり、自己に起こった事象にかんする心情表明として言われる。「ねた(妬)」(5月27日)「ねたみ(妬み)」はその項。

「「何(いづれ)の時(とき)にか、此(こ)の猪(しし)の頸(くび)を斷(き)るが如(ごと)く朕(わ)が嫌(ねた)しとおもふ所(ところ)の人(ひと)を斷(き)らむ」とのたまふ」(『日本書紀』:これは、言っているのは崇峻天皇であり、「嫌(ねた)しとおもふ所(ところ)の人(ひと)」とは蘇我馬子ですが、ここにおける「ねたし」の「ねとや(「ね」とや)→ねた」(「ねた(妬)」)は、自己の、馬子の存在しない境遇。馬子は自分が世の絶対的権威であるかのようにふるまっていたのでしょう)。

「霍公鳥(ほととぎす)いとねたけく(祢多家口)は橘の花散る時に来鳴き響むる」(万4092:この「ねた」は橘の花が咲くときにホトトギスが鳴く自己の境遇)。

「ねたきもの。人のもとにこれよりやるも、人の返事(かへりごと)も(人への返事も)、書きてやりつるのち、文字一つ二つ思ひなほしたる。とみの物縫ふに、かしこう縫ひつと思ふに、針をひきぬきつれば、はやくしりをむすばざりけり。また、かへさまに縫ひたるもねたし。」(『枕草子』:この「ねた」は、悔いなく文(ふみ)が書けたり、糸尻を結ぶことを忘れずうまく縫えたり、裏返しで縫ったりしていない自分)。

「淡路の御の歌におとれり。ねたき、いはざらましものをとくやしがるうちによるになりて寢にけり」(『土佐日記』:この「ねた」は、良い歌であること)。

「ねたくわれ ねのひのまつに(子の日の松に) ならましを あなうらやまし ひとにひかるる」(『古今六帖』)。

「取がたき物をかくあさましく(誰もが驚き言葉をうしなうように)もてきたる事をねたくおもひ、翁は閨(ねや)の內しつらひなどす」(『竹取物語』:この「ねたく」は、かぐや姫の相手として想的に願望通りの人が現れたような思いになり、ということ)。

「例の、人びとはいぎたなきに(いずまひなどなく眠りこみ)、ひと所(ところ)は(源氏は)、すずろに、すさまじく思し続けらるれど、(空蝉の)人に似ぬ心ざまの、なほ消えず立ち上れりける、とねたく、かかるにつけてこそ心もとまれ、と、かつは思(おぼ)しながら、めざましくつらければ、「さばれ」と思(おぼ)せども(どうにもならないことだ、と思いつつも)、さも思(おぼ)し果つまじく…」(『源氏物語』:どうしても思いの断ち切れない女への思いがたちのぼることを「ねたし」と表現している。ここでの「ねた」はその人と添う仲になること)。

「さて、(碁を)打たせたまふに、三番に数一つ負けさせたまひぬ(二敗した)。「ねたきわざかな」とて…」(『源氏物語』:この「ねた」は碁に勝つ有能な自分)。

「「(空蝉の)つれなき心はねたけれど、人(伊予介)のためは、あはれ」と思しなさる」(『源氏物語』)。