「ねたげ(妬気)」。「ねた(妬)」は想状態になりなにかを願望し感嘆していることを表現する(その項・5月27日)。「け(気)」は、見えないが、なにかあると感じられること→「け(気)」の項。つまり、「ねたげ(妬気)」は、想状態になりなにかを願望し感嘆していると客観的に気づかれる状態にあること。

「『よろづに見立てなく((男に)とくに見るべきところなどなにもなく)、 ものげなきほどを見過ぐして(ものになるようなところなどなにもないことも何も言わず過ごし)、 人数(ひとかず)なる世もやと待つ方は(普通に一人前に出世するかもと待つことは)、 いとのどかに思ひなされて(のどかなものと思われ)、 心やましくもあらず(こころ病むようなことでもありません。しかし)。 つらき心を忍びて(男のつらい心を耐えしのび)、 (男の心が)思ひ直らむ折を見つけむと、 年月(としつき)を重ねむあいな頼みは(年月を重ねるあてのない頼みは)、 いと苦しくなむあるべければ、 かたみに背(そむ)きぬべききざみになむある(お互い背く(別れる)べきときが来たのでしょう)』と(女が)ねたげに言ふに、腹立たしくなりて、憎げなることどもを言ひはげましはべるに(気持ちをふるいたたせると)、女もえをさめぬ筋にて(女も気の強い女で)、指(および)ひとつを引き寄せて喰ひてはべりしを(指に噛みついたので)…」(『源氏物語』:関係がさめてしまった男女において、ここに書かれているようなことを、女が「ねたげに」言い、男が腹をたてたという。この女における「ねとや(「ね」とや) →ねた(妬)」(その項)とはなんなのか。それは想状態になり願望化している自分の境遇です。つまり、私はあなたのようなつまらない男に添うような女ではないのに…という思い。その「け(気)」に男が腹をたてた。お前がそれほどのものか、ということ)。

「「かの、空蝉の、うちとけたりし宵の側目には、いと悪(わろ)かりし容貌(かたち)ざまなれど、もてなし(身の処し方、ふるまい)に隠されて、口惜しうはあらざりきかし(失望するようなものではない)。(末摘花は空蝉に)劣るべきほどの人なりやは。げに(女は)品(身分や地位)にもよらぬわざなりけり。心ばせのなだらかに、ねたげなりしを、負けて止みにしかな」と、(源氏は)ものの折ごとには思し出づ」(『源氏物語』:これは光源氏が空蝉に「負けた」わけですが、「ねた(妬)」の想いになっているのは源氏であり、空蝉にそれを感じさせる「け(気)」があるという意にとることが一般のようである。しかし、これはそうではなく、「ねた(妬)」の想いになっているのは空蝉であり、空蝉からはその「け(気)」が現れ、その「ねた(妬)」(その項)は人としてのあり方への想ひのようなものであり、「ねたげなりしを負け」とは、その人としてのあり方への想ひのようなものが空蝉の方が遠かった、というような意味でしょう)。

「かくにぎははしき所(女Cの所)にならひて来たれば(それに慣れ親しんだ状態で来ると)、この女(女B)、いと(生活状態が)わろげにてゐて、かくほかにありけど(女Cのところへ行っても)、さらに(まったく)ねたげにも見えずなどあれば、いとあはれと思ひけり。心地にはかぎりなくねたく心憂く思ふを、しのぶるになむありける」(『大和物語』149段:これは、「顔かたちいと清ら」な女Bと、古代における通い婚の関係にあった男Aが、Bが(親の関係かなにかで)社会経済的に零落し、「富みたる」女Cとも通い婚の関係になり、その後Bのところへ行った際の話。女Bは女Cのところへ行っても「さらに(まったく)ねたげにも見えず」だったそうです。この、女Bの「ねた」とはなんなのか。それは、女Cのようにありたい、という想願望です。その「け」が見えなかったという。男は、結局、この女Bのところにいることになる)。