ねとや(「ね」とや)」。「ね」は全的認了による呼びかけの「ね」であるが→「な(助・副)」の項、その「・全的認了による呼びかけ」(2024年12月10日)。この「ね」は、なにごとかを想する、祈るような願望表現になる→「今替(かは)る新防人(にひさきもり)が船出する海原の上に波なさきそね」(万4335:荒い波が立ちませんように)。「と」は思念的になにかを確認する。「や」は感嘆発声。「ねとや(「ね」とや)→ねた」は、想状態になりなにかを願望し感嘆していることを表現する。

「按察使大納言(あぜちのだいなごん)は、「我こそかかる目も見むと思ひしか、ねたのわざや」と思ひたまへり」(『源氏物語』:ある人が帝に厚く寵愛を受けている様子を見て言っている。「わざ」は、表面に現れた現象をもたらしている、発生させている、それ、のような意ですが(→「わざ(意・業・技)」)、その「それ」が「ねた(妬)」であることが「ねたのわざ」)。

「中将、心のうちに、「ねたのわざや」と思ふところあれど…」(『源氏物語』:夕霧(光源氏の息子)を雲井雁の寝所に案内することを「ねたのわざ」といっている。ここでの「「ね」とや→ねた」は、夕霧のような境遇にある自己)。

「…とて、柄も拳も通(とほ)れ通(とほ)れと刺すほどに、余りに繁く刺しければ、口と耳と一つになりにけり。さてこそ、後に人の申(まう)しけるは、「宵(よひ)に悪口(あつこう)せられしその妬(ねた)に、わざと口を割(さ)かるる」とぞ申しける」(『曽我物語』「祐経(すけつね)に止め刺す事」:この場合は、「ねた(妬)」によって現れている「わざ」(現象)。悪口を言われたその「ねた(妬)」により、それによりもたらされ、口を割(さ)かれた、と言っている。では、その「ねた(妬)」、悪口を言われたことによってある想状態の願望、とはなんなのか。それは、そうした悪口のない世界、そうした悪口のない世界にある自分、です。それが「ねた(妬)」となって口が攻撃された。それは口を消滅させようとする攻撃)。