文法で完了の助動詞「ぬ」と言われるそれ。N音による客観的認了とA音の全体感による「な」(→「な(助・副)」の項:たとえば「なみ(並み)」)、そのN音による客観的認了にU音の動態感(→「いく(幾)」の項(その「U音の遊離した動態感」))が生じているのがこの完了の「ぬ」。N音とU音により客観的な認了が動態として表現される。認了による均質感の表現が動態の時空的均質感を表現し、文法ではこれが「完了」と表現される。文法で、完了の助動詞、と言われる語に「つ」もありますが、「ぬ」の完了と「つ」の完了はどう違うのかと言えば、一般的な言い方をすれば、「ぬ」は客観的な均質感の表現であり、「つ」は思念的な同動感の表現です(→「つ(助動)」の項・2024年3月30日)。どちらも用い方は同じようでしょうけれど、『万葉集』では動詞「み(見)」や「きき(聞き)」は「つ」でしか完了表現されていない(「みえ(見え)」はどちらもある)。助動詞「つ」と同じように(→「つ(助動)」の項参照)、「ぬ」も認了されるので過去が表現される印象が強いですが、それが絶対の要請というわけではない。「日も暮れぬ」は、すでに暮れてしまったことも表現し、切迫しもうすぐ確定的に暮れることも表現する。「はや船に乗れ、日も暮れぬ」(『伊勢物語』)。要するに、もはやこれはもう暮れだ、それしかない、という状態が表現されている。「ぬ」に既に完了してしまった過去的な印象のみを感じている場合、確かな認了を表現する「ぬ」やそのA音化たる「な」に推量や将来見通しを表現する「む」「まし」「べし」などがついた昔の表現は、過去たる未来が同時に言われているようで、多少分かりにくいものになるかも知れませんが、そこでは確かに確定的に認了される未来や推量が言われている。「飛び降るとも降りなん(む)」(『徒然草』:当然降りられるだろう)、「明日は雪とぞふりなまし」(『古今和歌集』:確かにふる)、「風も吹きぬべし」(『土佐日記』:確かに吹く(そう言える))。

ちなみに、完了と過去の違いにかんして言えば、完了とは動態の客観的認了であり、過去とは記憶再起です。

文法ではこの完了の助動詞「ぬ」は活用し、活用形があるとされている。「な」(未然形)、「に」(連用形)、「ぬ」(終止形)、「ぬる」(連体形)、「ぬれ」(已然形)、「ね」(命令形)。この「な・に・ぬ・ぬる・ぬれ・ね」は、文法でナ行変格活用と言われる動詞「いに(往に):終止形「いぬ(往ぬ)」」の活用語尾に同じ。つまり、進行を表現するI音の「い」がこの完了の「ぬ」で認了され文法で動詞と評価されているのが「いに(往に)」。つまり、この完了の「ぬ」はその一音で動態を表現しつつそれ自体が活用するといってよい状態になっている。ただし、未然形は、下記の「~なむ」や「~なば」の「~む」や「~ば」が未然形に接続するのと同じ理由で未然形になるのであってたとえば、「行きなぬ」(「な」は完了、「ぬ」は、動詞で言えば、言はぬ、のような、否定)のような否定表現は、たしかに認了される状態でない(空虚)、虚無のたしかな認了、動態としてあり・ない、という事態が起こり、事実上、ない。