否定が表現される。文法では一般に、打消しの助動詞「ず」の連体形、と言われる。N音による客観的認了とA音の全体感による「な」(→「な(助・副)」:「なみ(並み)」)、その「な」の均質による相対的喪失(その「な(助・副)」の項における「・虚無・喪失感(否定・禁止)」:「なし(無し)」)、その喪失に母音U音の動態感が生じているのがこの「ぬ」です。相対的な喪失とは、何かが存在したり作用したりすることは、他との関係によってそれは存在し作用するわけであり、他との均質感はその存在感や作用感を喪失させるということ。すなわち、一般に否定や打消と表現される「ぬ」の本質は空虚・虚無・喪失です。その虚無不安は積極的な否定にもなる。この「ぬ」による喪失感が動詞で(動詞に接続して)表現される場合は「~むぬ」。「む」は意思・推量の助動詞と言われるそれ。「言はむぬ→言はぬ」。これが動態に関する意思の喪失を表現する。ある動態の意思・推量的動態に喪失感が生じることがその動態に関する確かな否定だということです。

前記のように、文法では、この「ぬ」は、一般に、打消しの助動詞「ず」の連体形、と言われるわけですが、打消しの「~ず」は「~ぬとす」や「~じゆ」であり(「ず(助動)」「じ(助動)」の項)、日本語における否定表現の基本はN音であり、S音やその濁音のZ音ではない。

ちなみに、「言はない」「書かない」「消えない」「見ない」「過ぎない」といった類型の否定表現がありますが、これは元来は、古代からある、東国(関東方面)の方言に由来する→「ない(助動)」の項。

「てりもせすくもりもはてぬはるのよのおほろ月よにしく物そなき」(『新古今和歌集』)。

「うづもれぬ名を長き世に残さんこそ、あらまほしかるべけれ」(『徒然草』)。

「朝露の消(け)やすき我が身他国(ひとくに)に過ぎかてぬ(加弖奴)かも親の目を欲(ほ)り」(万885:「かて(克て)」(その項)は自己を維持すること)。

・この「ぬ」の、すなわち、文法で言えば、否定の助動詞「ず」の連体形の、已然形に「ね」があると言われますが、これは「~ぬへ(ぬ経)」(否定を経過し)。

「襲(おすひ)をも いまだ解(と)かね(泥)ば…」『古事記』歌謡2:「~ねば」にかんしては「ば(助)」の項)。

「父母を 見れば尊(たふと)し 妻子(めこ)見れば めぐし愛(うつく)し 世の中は かくぞことわり もち鳥(どり)の かからはしもよ(可可良波志母与) ゆくへ知らねば(斯良祢婆)…」(万800:「もち鳥(どり)」は黐(もち)にかかった鳥。「かからはしもよ(可可良波志母与)」にかんしてはその項・2021年1月22日)。

「鳴く鶏(とり)はいや頻(しき)鳴けど降る雪の千重に積めこそ吾(われ)立ちかてね」(万4234:「かて(克て)」(その項)は自己を維持すること。これは宴席での歌ですが、こんなにめでたい雪がこんなに降り積んだら立つことなどできませんよ、というような歌。この歌の最後の部分は、「~でこそあれ」のような、「こそ+已然形」の表現になっているわけですが、こうした「ね」が、文法では、助動詞の活用における、打消しの助動詞「ず」の已然形、と言われる。国語の辞書でもその例文は「ず」の項目にある。この「ね」も「~ぬへ(ぬ経)」なのですが、「へ(経)」が已然形となり「~ぬふれ」になるというような変化ではなく、動詞の已然形というものが、動態の客観化された経過があることを表現する「動詞連体形+経(へ)」、たとえば「行く経→いけ」「耐へる経→たへれ」、という一般的なものであり、「~ぬへ(ぬ経)→ね」の場合「ぬ」が否定を表現する動詞連体形の作用をし「ぬへ(ぬ経)→ね」になる)。

・この「ぬ」の連用形(打消しの助動詞「ず」の連用形)「に」があるとも言われますが、これにかんしては「に(助動)」の項・3月23日。