◎「には(庭)」
「いには(去に端)」。「い」は脱落した。「いには(去に端)」は、行き端、のような表現ですが、動態進行の末端域(それを画した域)、の意。空間(ほとんどの場合土地。まれに海)の一部を何らかの目的で利用する場合、その利用(これが動態の進行)予定域末端(これが端(は))が設けられ、ある領域が設けられる。その領界域が「には(庭)」。「祀(まつ)りのには」(神事を行う)。「狩りのには」(狩をおこなうその域)。海の領域・漁域も「には」と言う。そして、家屋周辺のその居住者の用に供される土地域も「には」と言うようになる。
「乃(すなは)ち靈畤(まつりのには)を鳥見山(とみのやま)の中(なか)に立(た)てて、其地(そこ)を號(なづ)けて上小野(かみつをの)の榛原(はりはら)・下小野(しもつをの)の榛原(はりはら)と曰(い)ふ。用(も)て皇祖天神(みおやのあまつかみ)を祭(まつ)りたまふ」(『日本書紀』:「には」と読まれている「畤(呉音・ジ)」は『説文』に「天地五帝所基址,祭地」とあるような字)。
「『獵場(には)の樂(たのしび)は、膳夫(かしはで)をして鮮(なます)を割(つく)らしむ。自(みずか)ら割(つく)らむに何與(いか)に』」(『日本書紀』:これは猟場)。
「武庫(むこ)の海の庭(には:尓波)よくあらし漁(いざり)する海人(あま)の釣舟波の上(うへ)ゆ見ゆ」(万3609:これは海の漁場)。
「…いざ子ども あへて漕ぎ出む 庭(には:尓波)も静けし」(万388:これも海ですが、船旅での歌)。
「庭(には)に立つ麻手(あさで)刈り干し布(ぬの)曝(さら)す東女(あづまをみな)を忘れたまふな」(万521:この「には」は植物を育てているところ)。
「遊ぶ内の楽しき庭(には)に梅柳折りかざしてば思ひなみかも」(万3905)。
「庭つき一戸建て」。

◎「にはか(俄)」
「にはか(似努果)」。「に(似)」はなにものかがそこに在るかのようであったり、なにごとかがそこで起こっているかのようであることであり(→「に(似)」の項・3月21日)、「はか(努果)」は努力の成果(→「はか(努果)」の項)。「にはか(似努果)」は、そこ在るかのような、そこで起こっているかのような、(人や自然の)努力の成果・結果。意味としては、それが本物や本当のこと(現実)であることに確信がもてないものやことがそこにあることへの感動や感銘、という系統のものと、そこにあるものやことが本物とは思えないうさん臭さを感じている系統のものがある。たとえば「一天にはかにかき曇り」は、本物の曇りが起こっているという確信がもてない、一面の曇りに襲われる。なぜ確信が起こらないかというと、その変化が日常体験からいって、あまりに予想になく急激に変動する。「にはか雨」も、あんなに晴れていたのに本当か?と思うような雨。本物の雨とは思われないような雨。あるいは、たとえば「にはか侍(ざむらひ)」は、本物の侍がそこいるのではなく侍のようなものがそこにいる。「似(に)」の「はか(努果・成果、結果)」たる侍がそこにいる(即席でそのような恰好をした偽物の侍も「にはか侍(ざむらひ)」)。「にはか勉強」は即席で急激に行われる、真の勉強か?と思われる勉強。
「…むらきもの 心砕けて 死なむ命 にはか(尓波可)になりぬ…」(万3811:死にそうな命が「にはか」になった、とは、もはやこの世のものではないものになってしまった)。
「王既得聞如是法 合掌一心唱隨喜 法の希有なるを聞きて涙交(ニハカニ)流れ 身心大喜皆充遍」(『金最勝王経』平安初期点:仏法を聞き予想も自覚もなく涙が溢れた)。
「其の舩(ふね)卒(ニハカニ)壊れ 珍寶を失ひ盡(つく)しつ」(『大智度論』平安初期点)。
「野分立ちて、にはかに肌寒き夕暮のほど…」(『源氏物語』)。
「内のさまは、いたくすさまじからず。……もののきらなど見えて、俄(にはか)にしもあらぬにほひ、いとなつかしうすみなしたり」(『徒然草』)。
「にはか狂言・にはか芝居」(即興的演劇)。「にはかやまひ(俄病)」(急病)。