子音N音により認了され母音I音によりそれが進行する。認了の進行とは、物的・社会的意味や価値の均質感の進行です。空間的・時間的・動態的・情況的、さまざまな経験経過(物的、社会的、意味・価値の均質感経過)を表現する。「学校に行く」は「行く」という動態に「学校」が認了されつつ行く。「行く」という動態が「学校」という社会的意味に均質感が進行しつつ進行している。「学校に着く」は、「着く」という動態が「学校」という社会的意味に均質感が進行しつつ到着している。たとえば「家に在(あ)り」と言った場合「に」は場所を表現し、「家に行く」と言った場合「に」は目標を表現する印象を受けるが、それは「在(あ)り」と「行(い)き」の動態の異なりによることであり、「に」の意味の異なりによることではない。「に」はどちらもその動態がなにものかやなにごとかが均質しつつ進行していることを表現している。「AにB」と言われる場合のAやBの類型や関係はさまざまです。「心に思ふ」、「八時に家を出る」、「いづへの方にか我が恋やまむ」、「我妹に別れ」、「雨に濡れ」、「禊(みそぎ)しに行く」、「恋にまさりて」、「風に吹かれて」、「殿にもご機嫌うるはしう」。
「に」による動態のなにものかやなにごとかによる均質進行は「に」により動態の状態も表現する(動態を形容する)。たとえば「花やかに舞ふ」(舞ふ動態が花やか)。その結果、たとえば「花に咲く」と言った場合、「花」という場所に咲いていることも「花」の状態に咲いていることも、どちらも表現しますが、そのどちらかはその文で言われていることにより決まる。「虹ににほへる」(万1594)。「秋萩のしなひにあらむ妹が姿」(万2284)。「白木綿(しらゆふ)花に落ちたぎつ」(万909)。 「三つ合ひに撚(よ)る」、「ドロドロになる」などもそれ。
「に」はあるものごと(B)が、あるものごと(A)が均質進行しつつあることも表現する。たとえば、「早く来いっていったのに来ない」。こうした、文と文(A・B双方が主語と述語のある表現)をつなげている印象でもちいられている「に」は文法では「接続助詞」と言われる。その場合、BがAからの予想や期待通りであることもあれば(順接「彼は不平も言わずに長年働き続けた」)、それに異なることもある(逆接「春の雨はいや頻(しき)降るに梅の花いまだ咲かなく…」(万786))。「幣(ぬさ)たてまつらするに幣の東へ散れば」(『土佐日記』:幣をたてまつらせると幣が東の方へ散るので。これは、奉らせたのに…、という逆接ではない)。「待つに見えず」(『蜻蛉日記』:待っているのに見えない)。
・「に」には助動詞「ぬ」の連用形と言われる「に」もある。「行きにけり」。「行き」という動態が認了感をもって効果を発揮している情況が進行していることが表現されている。ただし、「て(助)」と同じように、この「行きにけり」や「泣きに泣き」の「に」が助詞か助動詞かは意味的には何の影響も無い。これが助詞になった瞬間、あるいは、助動詞になった瞬間、意味が変わるということは起こらない。
・また、「なり(生業)をしまさに(斯麻佐尓)」(万801)のような「に」も言われます、これにかんしては「な(助・副)」その「・全的認了による呼びかけ」。
・また、「行方(ゆくへ)を知らに」(万3627)の「に」のような、打消しの助動詞「ず」の連用形、と言われるに「に」もありますが、それかんしては別項。
「さねさし 相模(さがむ)の小野(をの)に 燃(も)ゆる火(ひ)の 火中(ほなか)に立(た)ちて 問(と)ひし君(きみ)はも」(『古事記』歌謡25:「火中(ほなか)」が認了進行する、経験経過する、「立(た)ち」。認了進行しているのは動態の環境情況。「さねさし」はその項)。
「いにしへに(古尓)ありけむ人も我がごとか妹に恋ひつつ寐ねかてずけむ」(万497:「いにしへ(古)」が認了進行する、経験経過する、「あり」)。
「歌の道のみ古へにかはらぬなどといふこともあれど…」(『徒然草』:「古(いにしへ)にかはる」という表現は、「古(いにしへ)」という状態に変わる、という意味にもなるが、これは、古(いにしへ)と今をくらべて変わらない)。
「八雲(やくも)立(た)つ 出雲八重垣(いづもやへがき) 妻籠(つまご)みに 八重垣(やへがき)作(つく)る その八重垣(やへがき)を(『古事記』歌謡1:これは『古事記』の最初にある歌)。
「なかなかに (中々二)人とあらずは桑子(くはこ)にもならましものを玉の緒ばかり」(万3086:「桑子(くはこ)」は蚕(かひこ))。
「(妻は)入日なす 隠りにしかば そこ思ふに 胸こそ痛き」(万466:思い、痛む。これは妻が亡くなった挽歌)。
「言立者(ことたてば)、足母阿賀迦邇(あしもあがかに)嫉妬(ねたみたまひき) 自母下五字以音」(『古事記』:「足母阿賀迦邇(あしもあがかに)」は、足(あし)も足掻(あが)くかに、でしょえう。この「に」は、ねたみ、という動態の状態を表現している。「言立者(ことたてば)」はそのこと(仁徳天皇が妾(みめ)をおくということ)が話題になれば、といった意味か)。
「向ひ居て見れども飽かぬ我妹子に立ち別れ行かむたづき知らずも」(万665:「見れども飽かぬ我妹子」が経験経過しつつ「別れ行かむ」)。
「いく世しも あらじわか身を なそもかく あまのかるもに 思ひみたるる」(『古今和歌集』:この「に」も「みだれ」という動態の状態を表現している。「瀬を早み(自動表現)」のような、「我が身を乱れ(自動表現)」という表現)。
「かくうたふに、船屋形(ふなやかた)の塵(ちり)もちり、空ゆく雲も漂ひぬ、とぞいふなる」(『土佐日記』:「かく歌ふに、~と言ふ」という、文と文をつなぐ「に」。順接であり、ものごとが添加されている)。
「かくいひつゝゆくに、船君なる人、波をみて…」(『土佐日記』:これも文と文をつなぎ順接)。
「あかなくに またきも月の かくるるか 山のはにけて いれすもあらなむ」(『古今和歌集』:この「あかなくに」の「に」も文と文をつなぐが、~なのに、という逆接)。
「そう言ったのに…」(この「に」も文と文をつなぎ逆接ですが、「に」以下が省略されている)。