「なんブホウ(何歩奉)」。「なん」は「なに(何)」の音便ですが、それにかんしてはその項。 ここでの「歩(ブ)」は田畑の面積単位。「なん歩(ブ)」は、何人(なんニン)や「何本(なんボン)」などのように、「歩(ブ)」が幾(いく)歩(ブ)なのかわからない。 「奉(ホウ)」は『說文』に「承也」とされ、「承(ショウ)」は『廣韻』に「次也,奉也,受也」とされるような字ですが、ようするに、権威に手をさしあげ、なにかを受けることも、さしあげること(与えること)も、意味する。日本でこれを動詞化すれば「奉(ホウ)じ」。「勅命を奉(ホウ)じ」は勅命を受け、神社への「奉納(ホウノウ)」は何かをさしあげ、納める。歩(ブ)を奉(ホウ)じる、とは、田畑の何歩かにあたる農産物、とりわけ米、をさしあげ、納めることであり。ようするに税です。税といっても、古代の「つき(税・調)」のような時間的空間的な一般性があるわけではなく、たとえば戦国大名がある域を支配し、その域の農民に「これだけ納めろ」と言った場合、言われたその歩(ブ)相当の産物をさしあげることになる、そのこと。この「奉(ホウ)」は「奉(ホウ)じる」という動詞として作用しており、「なんブホウ(何歩奉)→なんぼう」は、何歩(なんぶ)を奉(ほう)じる、という終止形の用い方になり、意味としては、何歩(なんぶ)を奉(ほう)じるのか…と、何歩(なんぶ)なのかを考えたり、何歩(なんぶ)を奉(ほう)じるのか…(いったいどれほど歩(ぶ)を奉(ほう)じればいいのか…)、と慨嘆したりする。たとえば「この馬なんぼうの馬か(この馬、何歩(なんブ)奉(ホウ)の馬か)」は、この馬、何歩奉じる馬か、ということ。「なんぼう恐ろしき御山(何歩(なんブ)奉(ホウ)じる。恐ろしき御山)」は、どれほどかもわからない何歩も奉じる(権威鎮めのためどれほど奉じるのだろう)、恐ろしい御山(「なんぼう」が挿入句の状態になっている)。「なんぼう尋(たづ)ね」のように動詞の状態を表現する場合「何歩(なんぶ)奉(ほう)じ」と連用形の状態で作用する(意味としては、どれほど奉じ尋ね・どれほど努力をそそぎ尋ね、ということ)。音(オン)は慣用的に「なんぼ」にもなる。
「(鉦の担当は誰に、ということになり、長沼は、と指名したが眼病で都合が悪く)『さ候はば、景時仕りて見候はばや』と申せば、『なんぼうの、梶原は銅拍子(トビャウシ)』と左衛門に御尋ね有り」(『義経記』:「銅拍子(トビャウシ)」は手に持つ小形シンバルのような楽器。この「なんぼうの」は、景時が何歩(なんブ)奉(ホウ)のものだ、なんぼのものだ(梶原こそが)、ということ)。
「なんぼうさきの夜(よ)。しのぶ小切戸がきりりと鳴る程に…」(「狂言」『節分』:何歩奉じる、さきの夜。どれほど努力を注ぐのか、と慨嘆する、さきの夜。どれほどかわからないさきの夜。ずっとさきの夜)。
「千年万年の齢(よはひ)をたもち、なんぼう目出度(めでたい)物にて候」(「狂言」『松脂』:どれほど奉ずるのだろう…。どれほどかわからない目出度(めでたい)物)。
「いかに沙那王殿。只今小天狗をまゐらせて候ふに。稽古の際をばなんぼう御見せ候ふぞ」(「謡曲」『鞍馬天狗』:何歩でも努力を注ぎ、どれほどでも、お見せしましょう)。
「なんぼうおそろしき御山なれば、これよりはるかに御拝礼なされまして、然るべう存(ぞんぢ)ます」(『役者論語』「続耳塵集」)。
「わたしやどこ迄も付いて行く。邪魔になるなら今爰(ここ)で、お前の手にかけ殺してたべ。なんぼうでも離れはせぬと、鞍に取付き鐙(あぶみ)に縋(すが)り…」 (「浄瑠璃」『一谷嫰(ふたば)軍記』:何歩奉(なんぶほう)でも離れはしない)。
「鶯もなんぼ寝ぐらやたづぬらん うつし植けり庭の紅梅」(「俳諧」『玉海集』:何歩奉じ寝ぐらをたずねただろう(どれほど努力し寝ぐらをたずねただろう))。
「『…なんぼ結構なお方でも、お嫁御さんが悪いと、…』」(「滑稽本」『浮世風呂』:どれほど結構なお方でも)。
「なんぼなんでも」(何歩奉じるなんでも(どれほどのなにであっても))。
「なんぼのもんぢゃい」(何歩を奉じる者ぢゃい(奉じる価値などない))。