◎「ならび(並び)」(動詞)
「ならべ(並べ)」の自動表現(→「ならべ(並べ)」の項(下記))。並べる動態になること。「はめ(填め)」の自動表現「はみ(填み)」による「なりはみ(成り填み)」の可能性もある。ただし「はみ(填み)」(意味は「はまり(填り)」)という動詞は資料では確認されない。ただし、「はん(はみ?)で仕事をする」という方言はある。これはうつむくように仕事に打ち込んでいる状態を言うらしい(これは「繁(ハン)で」の可能性もある)。「ならび(並び)」は、ものにかんしてのみではなく、ことにかんし、すなわち、物の質や、意味や価値などにかんしても言う。
「吾妹子(わぎもこ)に吾が恋ひ行けば羨(ともし)しくも(うらやましくも)並び居(ゐ)るかも妹と背の山」(万1210)。
「…にほ鳥の ふたり並び居(ならびゐ:那良毗為) 語らひし 心背きて 家離(さか)りいます」(万794:亡くなった妻を思う歌)。
「『御子三人。帝、后かならず並びて生まれたまふべし』」(『源氏物語』)。
「行幸にならぶものはなにかはあらん」(『枕草子』:匹敵するもの)。
「(今生まれたこの子の)この御にほひには(一皇子は)並びたまふべくもあらざりければ…」(『源氏物語』)。

◎「ならべ(並べ)」(動詞)
「なりはめ(成り填め)」。「なり(成り)」「はめ(填め)」はそれぞれその項参照。全体の意は、関係的均質が、すなわち、完成感が、生じる動態情況で(「なり(成り)」)、部分域化、固定化すること(「はめ(填め)」:「AをBにはめ(填め)」は、AをBに部分域化することです。AはBの部分になる)。「Aになりはめ(成り填め)→Aにならべ」、は、Aとの関係均質感が完成するわけですが、「Aをならべ」、の場合は、完成するのはA自体の動態情況たる関係であり、Aは複数です。
「衣(ころも)こそ 二重(ふたへ)も良き さ夜床(よどこ)を 並べむ(ならべむ:那羅陪務)君(きみ)は 畏(かしこ)きろかも」(『日本書紀』歌謡47:「畏(かしこ)きろかも」は、身が縮(ちぢ)んでしまう、のような表現。ここでのこの場合は、尊さに、ではなく、あまりにも不快で。これは天皇(すめらみこと)が八田皇女(やたのひめみこ)を側(そば)に召し入れると聞いた后皇(きさき)の歌。「~ろかも」という表現にかんしては(同母関係の)「ろ」の項)。
「大乗之妙典 蕩蕩 牢双(ナラフコトカタシ)」(『東大寺諷誦文稿』:なにもならばない。匹敵するものがない)。
「乎久佐乎等 乎具佐受家乎等 斯抱布祢乃 那良敝弖美礼婆 乎具佐可利馬利(をくさをと をぐさずけをと しほふねの ならべてみれば をぐさかりめり)」(万3450:東国の歌。この歌は、基本的に、歌意未詳とされるものですが、 「乎久佐男(をくさを)」は、招(を)き揺(ゆ)し「さ」を。「招(を)き」は、あなたを歓待する、という姿勢を示し招くこと。「揺(ゆ)し」は(心を)揺らすこと。「さ」は誘う発声。「を」は状態を表現する助詞であるとともに「男(を)」もかかる。つづく「と(等)」は助詞。つまり「をくさ」は、招き心を揺らし誘うこと。「をくさ男(を)」は女に対しそうする男が考えられている。 「乎具佐受家男(をぐさずけを)」は、荻(をぎ)揺(ゆ)さずけるを。「る」が無音化している。「纏(ま)かずけば(麻迦受祁婆)」(『古事記』歌謡62)なども「ければ」の「れ」が無音化しているでしょう。「荻(をぎ)揺(ゆ)さず」は荻(をぎ)を揺らし派手に穂花を散らすようなことをしない(荻(をぎ)には薄(すすき)の穂のような穂花がある。それは風で舞う)。「ける」は助動詞「けり」の連体形。「を」は上記に同じであり、助詞であり「男(を)」がかかる。つづく「と(等)」は助詞。荻(をぎ)の穂花を風に舞わせるようなことをしない男が考えられている。 「斯抱布祢乃(しほふねの:潮舟(しほふね)の」の「潮(しほ)」には、機会、の意がこめられる。潮(しほ)にのり、機会を得、進む船です。 「那良敝弖美礼婆(ならべてみれば)」。そんな船として、比較するように並べてみると。 五句の「乎具佐可利馬利(をぐさかりめり) 」は、男種(をぐさ)駆(か)り見(め)り。「をぐさ(男種)」は、男と言い得るなにごとか。男らしさ。「かり(駆り)」は、なにかを想いそれを追求しそれにかかわる希求を果たす情況動態になること。「見(め)り」は「見(み)」に完了の助動詞「り」がついている(「み(見)」のE音化にかんしては「り(助動)」の項)。「み(見)」に対し、「めり(見り)」は表現が客観的になっており、そうした表現の間接化は見るなにごとかへの尊重感の表現でもあるでしょう。「き(着)」の場合も、「けり(着り)」は着る主体への、自己が着る場合は着るその服への、尊重感がある。すなわち、「男種(をぐさ)駆(か)り見(め)り」は、(「をくさを」と「をぐさずけを」を潮船のようにならべて見れば)どちらが男らしさを駆り立てているか、どちらが男らしいかが、見られる、ということ。その場合、「をぐさ」は「尾草」でもあり、荻(をぎ)でもあり、それを揺らさない(揺れるままにしない)とは(「乎具佐受家男(をぐさずけを):荻(をぎ)揺(ゆ)さずける男(を)」は)、それを「刈(か)り・駆(か)り」取り去ってしまっている、ということでもあるでしょう。 最後の「可利馬利(かりめり)」は、原本(西本願寺本)で、最初の「利」に「リ」という読みが書かれ、添えられるように逆側に「チ」と書かれ、後世では一般に「知」の誤字であろうとされ、紙出版であれネットであれ、一般にそのように書かれる。しかし、原本(西本願寺本)は「利」です。「知」の場合は「かちめり(勝ちめり)」と読まれ、それが一般の読みになっている。「乎具佐(をぐさ)」が勝つ、という読みである。 つまり、全体の意は、「乎久佐男(をくさを)」のように、あちこちの女に気を引くようなことを言いその気を誘うような男と、そんな荻の尾花を風に舞わせるようなことをしない男を並べて見れば、そんな真似はしない男が本物の男なのだ、ということ)。