「なれはひ(馴れ這ひ)」。「なれ(馴れ)」(その項)を感じさせる動態情況になること。そうした努力があること。動態均質化努力が現れる。
「男(をのこ)もならはねはいとも心細し」(『土佐日記』:これは「ならはぬ」という本文もあるのですが、船に慣れていないので、ということでしょう(船に乗り、夜になり、天候もよくなく、心細かった))。
「『余(おのれ)、幼年(としわか)く識(さとり)浅(すくな)くして、未(いま)だ政事(まつりごと)に閑(なら)はず』」(『日本書紀』:「閑」は『廣韻』に「闌(門遮也)也,防也,禦也,大也,法也,習也,暇也」とある字。政事(まつりごと)に動態が均質化していない)。
「『さらば、取りおろして(いったんお下げして)。例のはひふし(這ひ伏し)にならはせ給へる御前たちなれば』とて、まかなひさわぐほどに…」(『枕草子』:「ならはせ給(たま)ひ」は、「ならひ」に「~せたまひ」のついた尊敬表現。この「せ」は尊敬を表現する(使役ではない→「せ((使役・尊敬謙譲の)助動)」の項)。「例のはひふし(這ひ伏し)にならはせ給へる御前たちなれば」とは、宮中で生活する女性の方々がそうであるところの、なだれるようにすわり下を向きうつ伏せになるように(食べていることを隠すように)食事をなさる皆さんだから、ということ。食事の支度はしたのだが、その状態では食べられないという苦情が出、あわてて支度をし直した。それが「まかなひさわぐ」。「まかなひ」は準備したり支度したりすること)。
「『…我に、などかいささかのたまふことのなかりけむ。幼かりしほどより、つゆ心置かれたてまつることなく、塵ばかり隔てなくてならひたるに…』」(『源氏物語』:隔てなく同質化した関係にあった)。
「躬(み)には梵言を習(な)ラヒ」(『大唐三蔵玄奘法師表敬』:梵言との同質化努力をする)。
「時に、近江国(あふみのくに)、武(つはもの)を講(なら)ふ」(『日本書紀』:これは、軍事にかんすることをいろいろと考えその訓練もしたということ)。
「彼をみならふ」。「ピアノをならふ」。