・東国の「なむ」
「にははむ(「に這はむ)」。「~に」は動態の状態を表現し、「ははむ(「這はむ)」は動詞「はひ(「這ひ)」に意思推量の助動詞「む」がついている。~という情況になっているだろう、~しているだろう、の意。古代東国の歌にある表現です。
「国々の社(やしろ)の神に幣(ぬさ)まつりあかこひ(阿加古比)すなむ(奈牟)妹(いも)が愛(かな)しさ」(万4391:「あかこひ(阿加古比)」は、諸説ありますが、「垢濃覆ひ(あかこおひ)」でしょう。「あか(垢)」は、努力の結果たる不要残物、のような意。それに濃(こ)く覆われ汚れはててしまうほど、自分を忘れ神に私の無事を祈っている妻が愛(かな)しい、ということ。これは防人の歌)。
「ま愛(かな)しみさ寝(ね)に吾(わ)は行(ゆ)く鎌倉(かまくら)の水無瀬(みなのせ)川に潮(しほ)満(み)つなむ(奈武)か」(万3366:これは東国の相聞歌。「無瀬(みなのせ)川」は後の鎌倉市・稲瀬川。最後の「か」は詠嘆)。
「橘(たちばな)の古婆(こば)の放髪(はなり)が思ふなむ(奈牟)心うつくしいで吾(あれ)は行かな」(万3496:「古婆(こば)」は地名でしょうけれど、未詳。この地名の「古婆(こば)」に音(オン)のよく似た「木端(こば)」がかかり、橘のそれは良い香り、ということなのかもしれません。「放髪(はなり)」は、髪を上げ、結うくらいの年齢になった娘(こ)(平安時代には意味が変る→「うなゐ(髫髮)」の項))。
「むらたま(牟浪他麻)の枢(くる)にくぎさし堅めとし妹か心(ここり)は揺(あよ)くなめ(奈米)かも」(万4390:妹であるかどうか揺らぐように心が揺れ動くなどということがあるだろうか→いや、けしてない。「牟浪他麻(むらたま)」は「群珠(むらたま)」で、たくさんの高価で美しい真珠。「くる(枢)」(「くるくる」の項)は開閉扉の回転軸にあたる部品であり、「来(く)る」がかかる。「枢(くる)に釘さし固め」は、扉をけしてひらかない。それにより「来るに釘さし固め」は、けして来させない(近づけない)。そんな思いで、あなたが妹であることに心が揺らぐことなどけしてない。これは東国の防人の歌ですが、ある程度の若い男が妹にあてたものでしょう)。
「なも」という表現もある。語尾に感嘆や添加・累積の「も」(「も(助)」の項)が入っている。
「比多潟(比多我多)の礒(いそ)のわかめの立ち乱(みだ)え吾(わ)をか待つなも(那毛)昨夜(きそ)も今夜(こよひ)も」(万3563:この「なも」の「も」は感嘆。「比多潟(比多我多:ひたがた)」は地名でしょうけれど、未詳)。
「奴麻布多都 可欲波等里我栖 安我己許呂 布多由久奈母等 奈与母波里曽祢(ぬまふたつ かよはとりがす あがこころ ふたゆくなもと なよもはりそね)」(万3526:沼(ぬま)二(ふた)つ 二句めは、通(かよ)ふ鳥(とり)が巣(す)、でしょう。万3478に「逢ふ時(しだ)」が「逢ほ時(しだ)」になるような東国の方言変化がありますが、そうした、母音が怠慢化したような変化。吾(あ)が心(こころ) 二行(ふたゆ)くなもと この「なも」の「も」は添加・累積。問題は五句の「なよもはりそね」ですが、「な~そね」の禁止の中に「よもはり」が入っている。「よもはり」は「四方(よも)張(は)り」でしょう。「な、よもはり、そね」は、四方に張りめぐらさないでください、ということ。私の心が二つの沼を通う鳥のようになっているなどという思いを自分の世界の周囲に張りめぐらさないでください、ということ。たぶんこれは女の歌でしょう)。
「宇倍兒奈波 和奴尓故布奈毛 多刀都久能 努賀奈敝由家婆 故布思可流奈母(うべこなは わぬにこふなも たとつくの のがなへゆけば こふしかるなも)  或本歌末句曰(或本の歌の末句に曰く)  奴我奈敝由家杼 和努賀由乃敝波(ぬがなへゆけど わのがゆのへは)」(万3476:これは様々な読み方がなされ、事実上、歌意未詳と言ってよい歌。読みですが、宜(うべ)、子(こ)なは、言(ゆ)はぬに恋ふなも(も、は感嘆)、「たは」程(と)付(つ)く「なほ(直・尚)」、「なほ」が「な」へ行(ゆ)けば、恋(こ)ひゆゆしかるなも(も、は累積)。「宜(うべ)」は、まったくそうだということ。「子(こ)なは」は、(年齢の問題ではなく、その人間性が、子供だと言い得る者は)。「言(ゆ)はぬに恋ふなも(わぬにこふなも)」は、この「~なも」の「も」は感嘆であり、言はないのに(「言ふ」はないのに)、言語表現がないのに・言語表現はないのに、恋ふ、といこと。「たは」程(と)付(つ)く「なほ(直・尚):たとつくの」は、「たは」は呆れた発声であり、「程(と)」は程度。「ほど」の意。「つく(付く)」はなにかが存在や動態として活性化することであり(→「つき(付き・着き)」の項)、「たは」と呆れた声がでるほど「なほ(直・尚)」だ、ということ。「なほ(直・尚)」は、基本的に、常態を表現する(→「なほ(直・尚)」の項)。「「なほ(直・尚)」が「な」へ行(ゆ)けば:のがなへゆけば」は、「なほ(直・尚)」は常態を表現し、否定的なことが働いても常態として「さらに」の意味にもなり、「な」には情況を認了する肯定的な「な」もあり、禁止を意味する否定的な「な」もある。そうした「なほ」が「な」へ行(ゆ)けば。「恋ひゆゆしかるなも:こふしかるなも」。恋ふことはゆゆしいことになることも…。最後の「なも」の「も」は累積。「ゆゆしいことに」とは、時間的空間的普遍的経験を動揺させる、ということ。全体で言っていることは、人は「言はぬ」に恋ふ。「なほ」が「な」へ行けば、恋ひはゆゆしいことにも…、ということ。「言はぬに恋ふ」の「に」には逆接と順接があり、「言はないのに恋ふ」と、「に」は動態の状態を表現し、言はぬ状態に恋ふ。「言はないのに恋ふ」とは、夢のように恋が生ひたってはいるが、その人に思いを言うわけでもなく、その世界に生きている。言ふことは思いが現実化することであり、それにより恋は無残な悲嘆にくれる事態になることもある。現実が怖く、それはしない。しかし、言わなければ恋は現実にはならない。その現実から逃れ、人は恋に生きる。恋愛に限らず、自分の内に明るい希望の日が昇るような思いに、そんな世界に、人は現実を恐れつつ生きる。常態たる「なほ」が否定・禁止の「な」となり、それが世界のすべてを認了し受け入れる「な」へ行けば、現実を恐れなければ、ゆゆしい恋が、すべての時間的空間的普遍的経験を動揺させる恋が、そこにあることも……ということです)。
「或本歌」の「和努賀由乃敝波(わのがゆのへは)」は、「言(ゆ)はぬが言(ゆ)ふの重(へ)は…」(言はぬが言ふに重(かさ)なっても言はぬにならない)。