・「花なむ咲く」「木なむ裂く(「裂く」は自動表現。裂ける、ということ)」
この「なむ」は「にややむ(にや止む)」。たとえば「花にや止(や)む咲く→花なむ咲く」と言った場合、「に」は、場所をではなく、状態を表現する。「花に咲く」は、花という場所に咲くのではなく、花という状態に咲く。この「に」は動態の状態を表現する。「花にや止(や)む」は、止(や)むのは花にではないのか(そうだ、花にだ)という倒置表現、「や+連体形」の係り結び、になっており、「咲く」という動態がどういう動態なのか、それを形容する表現部分が倒置表現、「や+連体形」の係り結び、になっている。それにより、ある動態(この場合は「咲く」)がどういう動態なのか、その内容が強意・強調される(Aなむ(動態)B、は、Aに、ですべての判断がやむ状態で(動態)B。「花なむ咲く」は、花ですべての判断がやむ状態で咲く)。つまり、この「なむ」の役割は、ある動態がどういう動態なのか、その動態内容を強意・強調すること。この「なむ」は動態を強意・強調しつつ形容する。
この「なむ」は「なも」にもなる。これは、さらに思いが深く表現された場合詠嘆の「も」が加わり「なむも」の「む」は消音化し「なも」になる。この「なも」は、『続日本紀』などの、『宣命』(天皇の詔(みことのり))によく現れ、そこでは「~となも所念(おもほし)」「~となも随神(かむながら)所念(おもほし)」といった表現がなされ、「と」が入り思念的に確認されさらに強調強意されつつ「所念(おもほし)」という動態の内容が強意・強調される。
この「なむ」は文法的に「助詞(係助詞)」と言われている。
「橋を八つわたせるによりてなむ八橋(やつはし)といひける」(『伊勢物語』:「言ふ」がどういう「言ふ」なのか、強意・強調されている。「八橋(やつはし)」と言うのはそういうことでなのだぞ、と強調するわけです)。
「つはものどもあまたぐして山へのぼりけるよりなむ、そのやまをふじのやまとなづけける」(『竹取物語』:「名づけ」がどういう「名づけ」なのか、強意・強調されている。「士(シ:つはもの)」がたくさん登ったので「富士(フジ)」だということらしい。彼らがもっていった「不死(フシ)」の薬も関係しているらしい)。
「たもとより はなれて(袂(たもと)以外で)玉を つつまめや これなむそれと うつせ見むかし」(『古今和歌集』:「見む」がどういう「見む」なのか、強意・強調されている。「打つ瀬見(うつせみ)」と「うつせみ(現・空蝉)」がかかっているということなのでしょう。これはその前にある「浪のうつ せみれは(瀬見れば) たまそ(珠そ) みたれける(乱れける) ひろははそてに(拾はば袖に) はかなからむや(儚(はかな)からむや・努果(はか)無(な)からむや)」という歌の返し)。
「心あるものは恥ぢずぞなむ(餞別の挨拶に)来ける」(『土佐日記』:けして恥ぢたりすることなどなく来た)。
「弟の左衛門佐(さゑもんのすけ)のもとへ人をつかはして、「別事(べつじ)なく只今なむかへりて候」とつげられたり」(『(延慶本)平家物語』:「帰り」がどういう「帰り」なのか、強意・強調されている)。
「『…(あなたには源氏の母・桐壺更衣に)あやしくよそへ聞えつべき心地なむする』」(『源氏物語』:「よそへ聞えつべき」は、意味解説的に書けば、あなたには源氏の母・桐壺更衣の社会的意味や価値を保障する外観・外聞になる思いがする、ということ。あなた(藤壺)は源氏の母・桐壺更衣が思われる、そんな感じがする、ということ)。
「『(悲しみで)目も見え侍らぬに、かくかしこき仰せ言を光にてなむ』とて、見たまふ」(『源氏物語』:「なむ」の後、「拝見させていただき、読ませていただきます」が省略されている)。
「かかる御使ひの、よもぎふ(蓬生)の露分け入り給ふにつけても、いと恥づかしうなむ」(『源氏物語』:)。
「院にもかかることなむと聞こしめして」(『源氏物語』:「なむ」の後、「現状あり」が省略されている)。
「いつはなも(奈毛)恋ひずありとはあらねどもうたてこのころ恋し繁しも」(万2877:「なも」の例。『万葉集』にある「なも」はこの一例のみ)。
「此食国天下之政事者平長将在止奈母所念坐(コノヲスクニアメノシタノマツリゴトハ タヒラケクナガクアラムトナモ オモホシマス)」(『続日本紀』「宣命」)。
「明(アカキ)浄(キヨキ)心以(ココロヲモチ)テ仕奉事(ツカヘマツルコト)ニ依(ヨリ)テナモ(奈母)天日嗣(アマツヒツギ)ハ平安(タヒラケクヤス)ク聞召来(キコシメシク)ル」(『続日本紀』「宣命」:明き浄き心をもって仕へ奉る事によってすべてが止む(すべてが解決し最終決着する)のではないか?天つ日嗣は平らけく安くきこしめし来るのは)。