・「咲かなむ」「裂けなむ」・「咲かなも」「裂けなも」
たとえば、「言はな」が、言いなさいな、と人になにかをすすめる「な」がある(→「家聞かな」(万1):その語源にかんしては「な(助動・副)」の項・2024年12月10日)。この「なむ」はそれに詠嘆の「む」がつき、「む」は「も」になることもある。
この「なむ」はその前に意思・推量の「む」が入りそれが無音化している(相手になにかをすすめる「な」はそういうものということ→「な(助・副)」の項)。すなわちこの「なむ」は原意的には「~むなむ」。「な」はその認了性により均質感を働きかけ他に何かを勧めたり促したりする→「な(助動・副)」の項。そして語尾の「む」はМ音の意思感により思ひのあること、詠嘆、が表現される。語尾は、前記のように、「も」にもなる。つまりこの「~なむ」「~なも」は、思ひ感をもって、意思を他者に働きかける。そうしましょうよ、そうしなさいな、のような表現です。「咲かむな、まぁ…→咲かなむ(も):咲きなさいな、まぁ…」。「雲だにも心あらなも」(雲だが、それでも、心がありなさいな、まぁ…(心があって欲しい))。
この「なむ」は文法的に「助詞(終助詞)」と言われている。この「なむ」は動詞が未然形と連用形が同形の場合、たとえば下二段活用や上二段活用の動詞の場合、前段の「なむ」と見ただけでは区別がつかない(語尾が「も」なら区別がつく)。たとえば「降(お)りなむ」(たしかに降りるだろう(推量))と「降(お)りなむ」(降りましょうよ、降りなさいな)。そのどちらなのかは言っていること全体の中で判断される。
「…桜花 散らずあらなむ還(かへ)り来るまで」(万1212:散らずありなさいな、まぁ…(散らないでいてもらいたい))。
「無耳(みみなし)の池(いけ:耳成(みみなし)山の麓の池)しうらめし吾妹子が来つつ潜(かづ)かば水は涸(か)れなむ」(万3788:涸れなさいな→涸れればいいのに。水が涸れればすべて見えるからです)。
「うちなびく春ともしるく鴬(うぐひす)は植木(うゑき)の樹間(こま)を鳴き渡らなむ」(万4495)。
「恋しとはさらにもいはじ(これ以上は言わない)下紐(したひも)の解けむを(解けるだろうことを)人はそれとしらなむ」(『伊勢物語』:男が女に、彼方に恋ふている、という文を送り、下紐が解けると誰かが恋ふているというが、そんなこともないのであなたの思いはそれほどでもないようだ、という返事がかえり、この歌はさらにその返し)。
「(受領がこの木立に目をつけて、こちらにいただけないかと言っているが)さやうにせさせたまひて、いとかう(このお住まいのようには)もの恐ろしからぬ御住まひに、思(おぼし)し移ろはなむ」(『源氏物語』:「おぼしうつろひ」は気持ちが変ること)。
「妹(いも)が門(かど) 夫(せな)が門(かど) 行き過ぎかねてヤ 我が行かば 肘笠(ひぢかさ)の 肘笠の 雨もヤ降らなむ 妹之門(いもがかど)…」(「催馬楽」『妹之門』:つまり、雨が降れば、それを言い分けに妹の門で雨宿りできるということ)。
「我妹子は釧(くしろ)にあらなむ左手の我が奥の手に巻きて去(い)なましを」(万1766:「くしろ(釧)」は腕輪のようなもの。手に巻いて一緒に連れていきたいということ)。
「あかなくに(飽かなくに) またきも月のかくるるか 山のはにけて(逃げて) いれす(入れず)もあらなむ」(『古今和歌集』)。
「「惟光とく参らなむ」と思す」(『源氏物語』:惟光がはやく来ればいいのに…、と思った)。
「三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなも隠さふべしや」(万18)。
「かみつけの(可美都氣努)をど(乎度)の多杼里(たどり)が川路にも子らは逢はなも(奈毛)ひとりのみして 或本歌曰 かみつけの(可美都氣乃)をの(乎野)の多杼里(たどり)が安波路(あはぢ)にも背(せ)なは逢はなも見る人なしに」(万3405:「かみつけの」は「つ」は助詞であり、「けの(の国)」の「かみ(上)」。「かみつけの」と「しもつけの」があり、前者は「かうづけ(上野)」後者は「しもつけ(下野)」の国になる。或本歌の「乎野(をの)」は「小野(をの)」であろうけれど、「乎度(をど)」は「をちの(遠方野)」か。「多杼里(たどり)」は地名であり所在不明とも言われますが、「辿(たど)り」であり、川筋をたどっていくような遠方の誰も知らない地。或本歌の「安波路(あはぢ)」は「淡路(あはぢ)」。路であるかどうかもよくわからないところの地。「逢はなも」は、そんな(誰も知らない、誰も見ない)ところで会えたらなぁ…ということ。ちなみに、「こら(子ら)」は、子供というわけではなく、若い女への愛称的なもの)。