◎「なみ(並み)」(動)
「な」のN音による認了、それによる均質感がМ音による意思動態感をもって表現されますが、この場合、N音をA音化しているそのA音は「あみ(余み)」(「あみ(余み)」という動詞があったと思われる→「あまし(余し)」の項)にあるような過剰感を表現し、この過剰感は複数感を生じさせ、認了された(均質化された)複数の(活用語尾M音による)意思動態は、同じものやことが、その配置や現れ方や意思動態のあり方を同じくしていることを表現する。たとえば「松なみ(並み)」と言った場合、それだけでその松は複数であり、その松は同じような配置感、現れ方をもってそこにある。「なみきみち(並木道)」も、秩序だった育ち方をした松や普通の松がそこに一本立っている道ではなく、複数の松が秩序だって(その配置や形態に均質感があり)立っている道です。「つきなみかひ(月並み会)」は同じような日に月ごとに開かれる複数の会(とりたてて見ることもなくありきたりであることを「つきなみ」というのは「つきなみ(月並み)」で開かれていた俳句の会で作られる類の俳句をある文人がそのように評したことに由来する)。「人がなみ(並み)ゐる」は、人が同じような空間的なあり方で複数の人々がいる。この均質化は、他と同じ、や、いつもと同じ、という印象も生じさせる。「並(なみ)のもの」。
「松の木の並み(奈美)たる見ればいはびと(伊波妣等)の我れを見送ると立たりしもころ」(万4375:「もころ」は、それそのもの、の意。「いはびと(伊波妣等)」は、一般に、「いへびと(家人)」の東国方言と言われていますが、これは「いはひびと(祝人)」でしょう。見送り、祝(いは)ひをおこなった人たち。これは防人の歌)。
「磐疊(いはだたみ)畏(かしこ)き山と知りつつも吾れは恋ふるか同等(なみ)にあらなくに」(万1331:私はあの畏(かしこ)き山と均質などと言える者ではないが恋ふている、ということですが、山が誰かを象徴しているのでしょう)。
「若鮎(わかゆ)釣る松浦(まつら)の川の川なみの並(なみ:奈美)にし思はば我れ恋ひめやも」(万858)。
「又入道殿、猶すぐれさせ給へる威のいみじきに侍るめり。老のなみにいひすごしもぞし侍ると、けしきだちてこの程はうちささめく」(『大鏡』:「老のなみにいひすごし」は、普通、老人が一般にそうであるように言い過ぎ、の意)。
「洪水により家屋は軒(のき)並み流され…」。「今年の降雪量は例年並み」。「並み居る選手の中で彼だけは…」(「…御船出でなば 浜も狭(せ)に 後れ並み居て…」(万1780))。
◎「なみし(蔑し)」(動詞)
「なみし(な見為)」。「なみ(な見)」は、見るな、ということ。見ることの柔らかな禁止です→「な(助・副)」の項。「し(為)」は動詞。「見るな」をする、とは、あんなもの見てはなりませんよ、と自分にも他者にも言っているような対応を(その「あんなもの」に)することです。つまり、評価を否定・拒否し、なんら評価しないこと。この語、漢文訓読系、とくに仏教系、の語という印象が強い。
「(是の如く微妙の真理に入り信敬の心を生ずるあらば)是を衆生をば無(なみし)て本(もと)のみを有すと名づく」(『金光明最勝王経』「巻三 滅業障品第五」平安初期点:この少し前には「如来所説の法には我(が)・人(にん)・衆生(しゆじやう)・壽者(じゆしや)あることなく、また生滅なく、また行法なし」とある)。
「无 ………ナミス」「蔑 ……ナイガシロ ナミス」(『類聚名義抄』)。
「名利ヲ貪(むさぼ)リ、自ラ憂悩シ他ヲ瞋(いか)リ、聖賢ヲ蔑(なみ)シ、神祇ヲ慢(ないがしろに)シ、因果応報ヲ撥無スルヲ、意ノ三悪業ト云、…」(『十善法語』:「撥無(ハツム)」は、廃(す)て、無にする、のような意)。