「~めき」は「春めき」その他の「めき」に同じであり、自然意思動態的に、生命活動的に、何かの様子や情況が現れること。「なま(生)」は、原意としては、ものやことがそれとして判断がなり立たない状態であることを表現するが(「なま(生)」の項・2月9日)、「なまめき」は、ものやことが、自然意思動態的に、生命活動的に、それとして判断がなり立たない状態であることを表現する。どういうことかというと、ものやことが現れているが、積極的にものやこととして存在をしめすような現れかたではなく、隠れようとするような控えめな現れかたであり、見え隠れするように見えるような、そんな動態状態を表現する。この「なまめき」が、「かたち清らに、心のなまめき」、「たをやかになまめき」、「品(しな)賤(いや)しからで、なまめき」、「いとさまよくなまめき」、「なつかしうなまめき」等、肯定的に表現され、「なまめき」は、その隠れ見える、見え隠れする、世界を美しい世界として表現する。それは控えめに、奥にある美しい世界です。「なまめき」はそんな動態状態を表現する。そして、「なま(生)」が人的加工が無いことを、自然性を、意味することの影響でしょう、この「なまめく」という言葉が艶な美しい女を表現するものとして用いられる。それは「なまめかしい」という言葉で表現されることの変化でもある。
「…と、(死んだ妻を思い)目おしのごひ給ふ。かたち(容貌)いときよげにおはします宮なり。年ごろ、御おこなひ(仏教の勤行)にやせ細り給ひにたれど、さてしも、あてに(品格があり)なまめきて、君達をかしづき給ふ(姫たちの世話をする)御心ばへに、直衣(なほし)のなえ(萎え)ばめるを着給ひて、しどけなき御さま、いと、恥づかしげなり」(『源氏物語』「橋姫」)。
「さて、五六日(いつかむゆか)ありて、この子 ゐてまゐれり。こまやかに、をかしとはなけれど、なまめきたるさまして、あて人(びと:品格のある高貴な人)と見えたり」(『源氏物語』「帚木」)。
「忠(ただ)こそ十三四になりぬ。かたち清らに、心のなまめきたること限なし」(『宇津保物語』)。
「大将の君(源氏)は、世を思(おぼ)しつづくること(世の無常を思うこと)、いとさまざまにて、泣きたまふさま、あはれに心深きものから(ものながら)、いとさまよくなまめき給へり」(『源氏物語』「葵」)。
「中将の君、御(おん)ともに参る。紫苑(しをん)色の折にあひたる、うす物の裳(も)、あざやかに引き結ひたる腰つき、たをやかになまめきたり」(『源氏物語』「夕顔」)。
「高麗(こま)の紙の、肌こまかになごう(和う)なつかしきが、色など花やかならで、なまめきたるに、おほどかなる(のびのびとしおだやかな)女手の、うるはしく心とどめて書きたまへるは…」(『源氏物語』「梅が枝」)。
「秋の野(の)に なまめきたてる をみなへし あなかしかまし 花もひと時」(『古今和歌集』)。
「その里に、いとなまめいたる女はらから(姉妹)住みけり」(『伊勢物語』)。
「源(みなもと)至(いたる)といふ人、これももの見るに、このくるまを女車と見て、寄り来て、とかくなまめく間に、かの至(いたる)、蛍をとりて…」(『伊勢物語』)。
「初めより懸想(けさう)びても聞こえたまはざりしに(当初から思いを寄せていることを言い伝わっているわけでもなく)、「ひき返し(ことをくつがえすかのように)懸想(けさう)ばみなまめかむもまばゆし。ただ深き心ざしを見えたてまつりて、うちとけたまふ折もあらじやは」と思ひつつ…」(『源氏物語』「夕霧」)。
「婀娜 ヨキカホ ナマメク」、「艶 …ヤサシ ウルハシ ナマメイタリ」(『類聚名義抄』:「婀娜(アダ)」は中国の書にその意は「美貌」と書かれるような字ですが、21世紀の日本ではその意は「色っぽくなまめかしい」と書かれたりする。つまり、「なまめき」による「なまめかしい」という語はその様な意でもちいられている。日本では「婀娜、艶、窈窕(※)」などが「なまめく」と読まれますが、それが「なまめく」の意のすべて、というわけではなく。「なまめく」を的確に表現する漢字はない。※「窈」は中国の書にその意は「深遠也」、「窕」は「深肆極也」(「肆」は「恣也,極也,放也」)と書かれるような字)。