「なまぬしいひ(並まぬ為言ひ)」。「なみ(並み)」はものやことが均質化することを表現する(→「なみ(並み)」の項)。「なまぬ(並まぬ)」はその否定。「しいひ(為言ひ)」は、「し(為)」は意思的・故意的な動態であることを表現し(→「し(為)」の項)、「いひ(言ひ)」は言語を発することですが、それは自己の意思表明であることもあれば、他者に対し言われることもある。「なまぬしいひ(並まぬ為言ひ)→なまじひ」は、均質化しない意思的・故意的な動態表明、ということですが、どういうことかというと、意思的・故意的行為として均質化しない、それとして成立しない、不全な、動態表明です。たとえば、「なまじひにAする」は、世間体などを思い、その意思でAをしているようにも見えるがそんな気持ちは実はなかったりする。この語は「なまじゐ」「なまじい」と書かれることもあり、単に「なまじ」とも言われる。『類聚名義抄』では「強、俛、詉、𠡠」などの字がナマジヒやナマシヒと読まれている。これらの字は、全般的に、意思の有無にかかわらずある意思に従うようなことを表現する。
この語の語源は「生(なま)強(じ)ひ」と言われることがほとんどです。語の意味は似た印象を受ける。しかし、「生(なま)強(じ)ひ」は、「しひ(強ひ)」であるかどうか判断が成り立たない強ひであり、そうする意思の実態が不全・不完全というような「なまじひ」とは意味が異なる。
「もの思ふと人に見えじとなまじひ(奈麻強)に常に思へりありぞかねつる」(万613:「~と人に見えじ」という決意が不全なものであり、そうはならない(いくらそう思ってもそれは完全なものにならず、なにかあると人に悟られてしまう:それほどにあなたへの思いは強く深い)。この「なまじひ」は、強ひであるとは言えないいい加減な強ひで人に見られまいと思っている、という意味ではないでしょう)。
「数ならぬ身にて(皇女との)及びがたき御仲らひになまじひに許されたてまつりてさぶらふしるしには…」(『源氏物語』:私のようなものに許すという不全な(身に余る)お許しを受けたからには…。これも、強ひであるとは言えないいい加減な強ひで許された、という意味ではない)。
「なまじひなるやからに身をそめ、何かせんとおぼしめし…」(「御伽草子」『のせ猿草子』:存在として半人前というか、不全な者たちの中にいて…)。
「引きつくろひて参るべきよし、仰せ下されければ、なまじひに鬢かき上げて供奉しけり」(『古今著聞集』:鬢かき上げる動態がいい加減で、不全)。
「なまじい云出して、そんならどふとも勝手にしろと突出されても立派には口のきけねへ身分だから」(『春色辰巳園』:方針として不完全・いい加減に、不全な状態で、言いだして…)。
・「なまじっか」は「なまじひから」。なまじひによって、の意。