「なましし(生宍)」の形容詞化。「なましし(生宍)」は、生(なま)の肉(にく)。焼いていなかったり、調理していなかったりする肉という意味ではない。食べられるのかどうか、食用になるのかどうか、判断のつかない肉。「なま(生)」の意味にかんしてはその項(2月9日)。いつからとも知れず、食べる習慣があり、生きており、それを狩るなり屠殺するなりし、それを食用に解体した肉であれば、食べられることの了解がある。しかし、その種の動物であったとしても、偶然死体をみつけ、何かの動物がそれを食ったのか、一部崩れ、蠅がたかるその他も起こっているような場合、食えるのか、という疑惑がわく。食えないという明瞭な判断のつくものであるわけではない。しかし、疑問なく食用として受け入れられているわけでもない。ましてや、それがいままで食った経験のない動物であればなおさらである。そんな肉のような印象であることが「なましし(生宍)→なまし」。シク活用の形容詞。連体形は「なましき」。獣肉以外のもの、たとえば魚肉や植物、にかんしても言い、ことにかんしても言う。
「生(ナマ)しき穀を貯へ聚め 魚肉を受取り 手自(てづから)食を作る」(『大涅槃経集解』:食用として精製されているようなものではなく、野生からそのまま集めたような、ということでしょう)。
「長洲の浜に至りて、生(なま)しき魚を求めて」(『古今著聞集』:なぜ「なましき」なのかというと、これを求めたのは肉食をしない僧の行基だから(病人を救うため))。
「また傍を見給へば、死骨白骨生しき人、或は人を鮨(すし)にして、目もあてられぬ其中に…」(「御伽草子」『酒呑童子』:これは鬼の棲み処の様子)。
「衆生ノ機ナマシキ時ハ感応ナシナマシトイフハ罪障ノ水ノ気アリテ慈悲ノ応火ツク事ナシ。信心ノウスク智解ノ発セサル事コレナマシキスカタ(姿)ナリ。生シキ木ニ火ノツカサルカ如シ」(『沙石集』(国立国会図書館所蔵のもの):「感応ナシナマシ」は、「感応ムナシナマシ(虚し生し)」の「ム」が落ちているのであろうか。少し後に「感応ムナシカラス(からず)」という一文がある)。