◎「なほり(直り)」(動詞)
「なほ(直)」の動詞化であり「なほし(直し)」の自動表現。「なほ(直)」はその項(2月4日)。「なほ(直)」の状態になること。すなわち、動態や形状の常態の不全が生じた場合その原状常態が回復すること。人の態度や素行や生き方が崩れた場合にそれが回復することも言う→「そこになほれ!」。
「心地よくなをりたまひなば、参りたまへかし」(『宇津保物語』)。
「からうして今日は日のけしきも直れり」(『源氏物語』:天気がよくなった)。
「とほきくにに侍りける時、おなしさまなるものとも、ことなほりてのほるときこえける時、そのうちにももれにけりとききて、みやこの人のもとにつかはしける」(『千載和歌集』「詞書」:ここで「ことなほりてのほる(事なほりて(都へ))のぼる」とは、地位や立場がもとどほりになり都へもどる)。
「座席ニナヲリテ畏(カシコマ)リ」(『源平盛衰記』:姿勢をただす)。

◎「なま(生)」
「なやもや(菜やもや)」。「な(菜)」は食べ物を、食用の植物や動物を、意味する(→「な(菜・肴)」の項・2024年12月9日)。「や」は疑惑を表明する発声(→「や(助)」の項)。「も」は推想を表現する助詞(→「も(助)」の項)。最後の「や」も疑惑を表明する発声。全体の意味は、菜(な)でもあるのか?…ということなのですが、ようするに、それが食べ物であるのか明瞭な判断がつかない。そんな気もするが、判断がつかない。この表現がものごとにかんして言われ、あるものごとが、それがものごとであるのか、それはものごととしてあるのか、それをものごととして受容できるのか、明瞭に判断がつかない。ある事象が、事象としてあるのか、その事象として受容できるのか、明瞭な判断がつかない。それが「なやもや(菜やもや)→なま」。「なま目とまる心も添ひて(薫を)見ればにや、眼居(まなこゐ)など、これは今すこし強うかどあるさままさりたれど、眼尻(まじり)のとぢめをかしうかをれるけしきなど、いとよく(薫は柏木に)おぼえたまへり」(『源氏物語』:「なま目とまる心も添ひて」は、父親はだれなのかと気になっていて、自分でも、見る、という意思も自覚もなしに目がとまる、ということ)。
この語が、ものごととして存在感のない、ものごととして完成していない、不完全な、いい加減な、といった意味にもなり、さらには、ものやものごととして人の関与がない、なにもなされていない、という意味にもなっていく。
「なまもののゆゑ知らむと思へる人」(『源氏物語』:もののゆゑを知っているかのような人)。
「我朝にいふ天狗とはなにものやらん。古今の大とここれを病めり。今とても自勝他劣の見にしづみ、我慢増上の念あらば、くちばしもつばさもなくて、生(なま)のてんぐなるべし。才智げいのうにつき、みづからたれりとおもはん人は、くらまのおくをたづぬべからず。とをからぬこころのおくの道にまよひては、いにし世にも、みなかの道におち給ひしぞかし。いわゆるほとけのどく、魅鬼のたぐひか」(「仮名草子」『御伽物語』)。
「左右(ヒダリミギ)ノ手ニハ小(チイサ)キ生魚(ナマウホ)ヲ二・三ヅツ把(ト)リ…」(『源平盛衰記』)。
「なま暖かい」、「なまぬるい」、「なまやさしい」。「なま煮え」、「なま請け合い」。「なま兵法」、「なま意気」。「なま首」や「なま爪」は、生体として死んではいるが、処理加工されていない素材のような印象の頭部や爪。