「なほ(直・尚)」はその項。「し」は「し(助・副助詞)」(その項)のそれであり、「なほ」を強意表現する。つまり、この「なほし」は「なほ」が強意されているだけであり、「し」がなくても意味は決定的に変わるわけではない。「なほ」の意味にかんしては「なほ(直・尚)」の項(2月4日)。
「橘は花にも実にも見つれどもいや時じくになほし(奈保之)見が欲し」(万4112:見ているがやはり…)。
「泡沫(みつぼ)なすかれる(可礼流)身ぞとは知れれどもなほし(奈保之)願ひつ千年(ちとせ)の命(いのち)を」(万4470:「かれる身(み)」とは知られているが、それでもやはり…。「泡沫(みつぼ:美都煩)」は小さな水の泡。「かれる(可礼流)」は四段活用動詞「かり」の活用語尾がE音化(命令形や已然形と言われる(人によって言い方が違う))し完了の助動詞「り」の連体形がついているということですが、動詞「かり(借り)」は、無いが有るなにかたるあり方としてそこに現れることをあらわす→「かり(借り)」の項(2021年7月7日)。この「かれる身」という言い方は仏教の影響でしょう)。
「大金鼓の光明晃(ひか)り耀(かかや)けること猶(なほし)日輪の如くあるを見つ」(『金光明最勝王経』平安初期点:輝く常態を維持しつつ輝く。これは、さらに、のような意になる)。
「如何に行者我はなほし。此妄執の故により。浮びかねたる橋柱の。重き苦患者を見せ申さん」(「謡曲」『舟橋』:これは表現が倒置になっており、妄執の故により我はなほし、ということ)。
「然れば、花厳経の功徳、無量也。一四句の偈を誦せる、猶(なほ)し此の如し。何況(なんぞいはん)や、解説し、書写・供養せらむ人の功徳を思ひ遣るべしとなむ」(『今昔物語』:「一四句の偈を誦せる」だけという、効果か減衰しそうなことだけでも効果の常態・効果的であること、は維持される。何況(なんぞいはん)や…)。
「是の如き惡人は大乘の名字を尚(すらなほし)聞くこと得難し。況(いはむや)當(まさ)に能(よ)く無上の佛果を證せむや」(『地蔵十輪経』元慶(877-85年)点:この「すらなほ」(「そらなほ」とも言う)という表現は、「~すら」で、可能性が乏しいことが起こっていることが言われ、「なほ」でその常態が維持されていることが言われそれが強調・強意される。そして、況(いはむや)…(ならばもはや言う必要さえないが…))。
「后の宣はく、『何方(いづかた)と更(さら)に思えず。只、鳥の飛(とぶ)よりも猶(なほ)し疾(と)く飛び行くに、一時(ひととき)許(ばかり)に行着くは、遥に遠き所にこそ有るめれ』と申し給へば」(『今昔物語』:この「よりなほ」や「よりもなほ」という表現は、「より」により比較し程度が激しいことが言われ、「なほ」により、その情況動態を常態として程度激しく、ということであり、さらに、一層、のような意味になる)。