「なほ(直・尚)」の語源(1)

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「ねはふを(音這ふを)」。「ね(音)」は、起源は自然音響であり、それは音(おと)の変動ですが、その影響や作用を意味する。その影響・作用には効果があり。その意味で、この語は「値・価値(ね)」にもなる。社会的な価値は意味です。「ねはふを(音這ふを)→なほ」の場合の「ね(音)」とは、聴覚刺激たる「きき(聞き)」の作用をするものごとの「きき(効き)」なのです。「はふ(這ふ)」はそれが情況化して感じられることであり、「を」は助詞になっているそれであり、状態を表現する。状態を表現する「を」とは、たとえば、「女を生きる」(女を活かす、の場合の「を」は目的を表現する)。つまり、「ねはふを(音這ふを)→なほ」は、「音(ね):影響作用」が這(は)っている(情況化している)状態で、状態だが、ということ。つまり、音(ね)が聞こえその影響下にある状態で、ということなのですが、効(き)きを得ている状態で、と言ってもいい。その音(ね)たる影響作用、効(き)き、は、とくに意識されないありきたりな生活により自然に効果が生じた、普通の人の常態たる、そうした常態として形成されている、影響作用であることもあれば、そのときの個別的な、特別なできごとによる影響作用であることもある。表現の仕方としては、ただ「なほ~」と表現されることもあれば、そうであることを否定するなにごとかがあり、あるいは、そうではなくなるのではないかと思われるような情況化で、それでも「なほ~」と表現されることもある。二度繰り返し強意された「なほなほ」もあり、これによる動詞「なほり(直り)」「なほし(直し)」、ク活用形容詞「なほし(直し)」もある。

「豊国(とよくに)の企救(きく)の浜辺の真砂地(まなごつち:愛子地)真直(まなほ)にしあらば何か嘆かむ」(万1393:「ま(真)」は、完全、本物、混じり気のない純粋な、といったことを表現しますが、「ねはふを(音這ふを)→なほ」における、ここで聞こえ、効果を発揮している音(ね)は、人としての音(ね)。それが「まね(真音)」であるとは、そこに偽(いつは)りや飾りたる操作のない、その音(ね)そのものの音(ね)であること。そして「真直(まなほ)にしあらば何か嘆かむ」。その真音(まね)にあるなら、それがどのような結果をもたらそうと、それによりどうなろうと、なにを嘆くことがあるだろう。「豊国(とよくに)」は後の大分県・福岡県東部あたりの古い国名。「企救(きく)の浜辺」は、福岡県・北九州市あたり)。
「などいふうちよりなほもあらぬことありて春夏なやみ暮して、八月つごもりにとかうものしつ」(『蜻蛉日記』:この「なほもあらぬこと」は、普通の生活をしている常態にあらぬこと。つまり、普通の生活経験にない非日常的なこと(予想外なこと)。具体的には、妊娠し、八月末に出産した)。
「天の下の色好みの歌にてはなほぞありける」(『伊勢物語』:天下の色好みの歌にしてはありきたりな常態だ(新鮮さのない予想内の歌))。
「さきし時猶(なほ)こそ見しかももの花ちれはをしくそ思ひなりぬる」(『拾遺和歌集』)。
「斯(か)くしてやなほや老いなむみ雪降る大荒木野(おほあらきの)の小竹(しの)にあらなくに」(万1349:こんなふうに私はありきたりに老いていくのか。雪ふる野の篠(しの)ではあるまいに…(雪ふる野の篠(しの)は頭が白くなりうなだれている)。「大荒木野(おほあらきの)」は地名であろうけれど、不明。この歌は、私はこの先さらに、もっと老いる、という歌ではない)。
「宮づかへのはじめに、たゞなほやはあるべき」(『伊勢物語』:ありきたりで、なんでもない、なにごともない、普通であるべきか?(非日常的な、特別ななにごとかをしたほうがいい))。
「「夜べより待ちくらしたるものども猶(なほ)あるよりは」 とて、こなたかなたとり出でたり」(『蜻蛉日記』:そのままあるよりは、のような意)。
「ありどころは聞けど、人のいき通ふべき所にもあらざりければ、なほ憂しと思ひつゝなむありける」(『伊勢物語』:住んでいる場所は聞いているが、相変わらず、憂し、と思いつつ、のような意。憂しと思い、人のいき通ふべき所ではないので一層、憂し、と思い、という意味ではない)。
「加利奈良(雁(かり)なら) 奈乃利曽世末之(名のりぞせまし) 奈乎久久比奈利也(なを鵠(くぐひ)なりや) 止宇止宇(とうとう:疾(と)く疾(と)く)」(『催馬楽 古本風俗志』「彼乃行(かのゆくは)」(国文学研究資料館蔵):この「なを(奈乎)」は、「なほ(直・尚)」ですが、雁(かり)か鵠(くぐひ:白鳥)か、という判断不能の疑念状態において、鵠(くぐひ)か、という思いになり、「そのまま」という意味。この歌の全文は、「かのゆくは かりかくくひか かりならは はれや とうとう(疾(と)く疾(と)く:早く早く) かりなら なのりそせまし なを くくひなりや とうとう」と読める。「はれや」は、張(は)れや、であり、大空に立派な雁行になれ、ということでしょう)。
「とりたててはかばかしき後見(うしろみ)しなければ、事ある時は、なほ、より所なく心細げなり」(『源氏物語』:常態として心細いが、なにかことがあったとき、なほ、とは、さらに一層、のような意味になる)。
「なほ思ひてこそいひしか、いとかくしもあらじと思ふに…」(『伊勢物語』40段:この「なほ思ひてこそいひしか」は、世にある普通のことと思って言ったが、ということ(しかし思いのほか重大なことになった))。
「四季はなほ定まれるついであり。死期(しご)はついでを待たず」(『徒然草』:この「なほ(ねはふを(音這ふを))」は、人の常態の当たり前のこととして、ということ)。
「『…いと、好きたまへる親王(みこ)なれば、かかる人なむ、と聞き給ふが、なほもあらぬすさびなめり』」(『源氏物語』:普通ではないすさび(勢いのある状態))。
「『なほ、しばし、こころみよ』」(『源氏物語』:これは、「そのまま、もう少し、真相がわかるまで様子をみてみなさい」のような言い方)。
「久方の月の桂(かつら)も秋は猶(なほ)もみちすれはやてりまさるらむ」(『古今和歌集』:秋はそうなる常態で)。
「いにしへに猶(なほ)立帰る心かなこひしきことに物わすれせて」(『古今和歌集』:人の常態で。人とはそういうもので)。
「霍公鳥(ほととぎす)なほも鳴かなむもとつ人かけつつもとな朕(あ)を哭(ね)し泣くも」(万4437:この「なほも」は、鳴いている状態にさらに、もっと、ではなく、普段のように、あたりまえに、ということ。そう鳴いてくれ、昔の人が思いにかかりむやみと(その声が)私を哭(な)かす。つまり、あたり前のホトトギスなのにむせび泣いてしまう、ということ。「もとつ人」は、昔のなじみというか、古く知っている人。この「泣く」は連用形「泣け」の他動表現(連用形「泣き」の自動表現ではない)。泣かす、ということ)。
「語らふべき戸口もさしてければ、うち嘆きて、なほあらじに、弘徽殿の細殿に立ち寄り給へれば、三の口あきたり」(『源氏物語』:この「なほあらじ」という表現は、常態ではいない、このままではいない、このままではすまさない、のような意味になる)。