これは古代東国にある表現です。『万葉集』に採録されている。「ぬはふ(~ぬ這ふ)」。「ぬ」は否定。厳密に言うと、空虚・虚無・喪失(「ぬ(助動)」「な(助・副)」の項)が表現される。「ぬ」の場合は動態にかんしそれが表現される。「はふ」は「はひ(這ひ・延ひ)」の終止形・連体形であり、情況努力感とでもいうような動態を表現する(→「はひ(這ひ・延ひ)」の項)。「ぬはふ(~ぬ這ふ)→~なふ」の「~」の部分ではなんらかの動態が表現されるわけですが、「ぬはふ(~ぬ這ふ)→~なふ」は、その動態をしない情況努力になること。個別的・一般的にしないのではなく、時空一般的にそうしない情況が現れる。たとえば、ある人が「寝(ね)ぬ」は、ただその人に「寝(ね)る」という動態がない。「寝(ね)ぬはふ→ねなふ」は、その人に、時空を超えて、時空一般的に、寝ることがない。寝るという動態がないのではなく、その人は寝るということのない人格になっており、その人格の現れたる情況になっている(この場合「寝(ね)」は、睡眠することではなく、男女の関係になることを言っている)。この表現が古代の東国では独立した助動詞の状態になっている。意味は「無ふ」と書くとわかりやすい。動態が無い。ただ、しない、のではなく。無い。
この語は、すくなくとも資料としては、連用形がない。連用形の例がないのは、この動態は人格傾向として自然現象のように現れ、意図的にそうしたりやめたりという動態ではないからでしょう。
この語は一般に「方言」と言われる。しかし、それは、当時、奈良や京都でもちいられていなかったということであり、この語をもちいている人たちの人間性が卑しいとか、文化が遅れ知的に遅れていると考えることは誤りです。たとえば「寝(ね)ぬ」というより、「寝(ね)ぬ這(は)ふ→ねなふ」と言ったほうが、表現されていることは意味深いのです。
・(なふ)
「武蔵野のをぐきが雉(きぎし)立ち別れ去にし宵より背ろに逢はなふよ」(万3375:「をぐき(小潜き)」は小さな、こもっているというか、隠れているというか、そういうところ。そこで彼と会い、二人のことがあったのでしょう)。
「伊香保せよ 奈可中次下 思ひどろ くまこそしつと 忘れせなふも」(万3419:「せよ(世欲)」は、瀬(せ)よ、であり、「よ」は比較を表現する助詞であり、瀬(せ)より激しく、の意。二句の「奈可中次下」は難訓と言われ未読とされる部分ですが、これは、表現が、あまりにも、そのまま書くことは憚(はばか)られるものなので、字順を転倒させて書いたものでしょう。すなわち、正しくは、「奈可中次下」ではなく、「下次中可奈」。読みは、しもつぐなかかな(下接ぐ仲かな)。言うまでもなく、男性性器と女性性器がしっかりとつながっている、ということ。それも、伊香保の瀬などよりも激しく強く。「思ひどろ」は、思ひ轟(とどろ)。「隈(くま)こそしつ」は、隅々(すみずみ)こそ思いをこめてした。「忘れせなふも」は、忘れられない、ああ…。「忘れせぬはふも」であり、最後の「も」は感嘆。これは歌としてはひどい歌なのですが、真情でしょう。『万葉集』編集者の偉い点は、猥褻だなんだと言ってこれを削除しなかったことです。ただ、一部の句を逆に書いた)。
その他「なふ」にかんしては、万3525、3444、4378、3516。
・(なへ)
「まを薦(こも)の節の間近くて逢はなへば沖つま鴨の嘆きぞ我がする」(万3524:「まを薦(こも)」はカラムシの薦(こも)。「已然形+ば」)。
「たくぶすま(栲衾)白山(しらやま)風(かぜ)の寝なへども子ろがおそき(襲着)のあろこそえしも」(万3509:「已然形+ども」。「子ろ」は女性に対する愛称表現のようなもの。「あろ」は「ある」の方言的変化。万3423に「ふろよき(降る雪)」、万3414に「あらはろ(顕(あらは)有(あ)る)」という表現がある。「えし(歓し)」はその項。白山風のように(なんの色あいもまく)、寝なくても、(寒いので)あの子の襲着(おそき)、これがあったらよいのだが、ということであり、「おそき(襲着)」に「おそき(遅来)」がかかり、(その彼女が)今でなくとも、後に私のところに着てくれたらいいのだが、ということでしょう)。
「昼解けば解けなへ紐の我が背なに相寄るとかも夜解けやすけ」(万3483:「やすけ」の「け」は「き」の方言的変化でしょう。万3412に「愛(かな)しけ子(こ)」という表現がある。これは「なへ」が名詞につづく例)。
「等夜(とや)の野に兎(をさぎ)ねらはり(狙はり)をさをさも(まったく)寝なへ子ゆゑに母に嘖(ころ)はえ」(万3529:「等夜(とや)」は地名と思われますが、不明。「ころひ(嘖ひ)」はその項。獲物として兎を追っていたら、(娘のところへしのんできたと思われ)関係ない女の子ゆえに怒られ怒鳴られた。これも「なへ」が名詞につづく例)。
この、「なへ」が名詞につづく表現は、たとえば「寝(ね)ぬはひ」の「はひ」が客観的対象を主体とした他動表現として「はへ」になり、「ねぬはへこ(寝ぬ這へ子)→ねなへこ(寝なへ子)」は「寝ぬ」を「はへて」いる子、寝ないことを環境情況にしている子、という表現になる。「~ないこと」「~ないもの」といった表現(たとえば「寝ない子」)にかんしては「ない(助動)」の項。
その他「なへ」にかんしては、万3555、3466。
・(なは)
「会津嶺の国をさ遠み逢はなはば偲ひにせもと紐結ばさね」(万3426:「逢はなはば」→逢えなくなったら)。
「あぜと言へかさねに(佐宿尓)逢はなくにま日暮れて宵(よひ)なは来なに明けぬしだ来る」(万3461:「あぜと言へか」→なにゆえと言えばいいんだ、なぜなんだ。「さねに(佐宿尓)」は、一般に、さ寝(ね)に、と解されていますが、種(さね)に、でしょう。まったく、ということ。「来(こ)なに」は、来(こ)なふに、の、ふ、が退行化している。「しだ」は、時(とき)、の意)。
「さ衣の小筑波嶺ろの山の崎忘らえ(ye)来ばこそ汝を懸けなはめ」(万3394:「忘(わす)らえ(ye)」は、四段活用「わすり(忘り)」に自発・可能の助動詞「え(ye):意味は「れ」とほとんど変わらない」(その連用形)。「忘(わす)らえ(ye)来(き)」は、自分がそうなってくる→自分はそうなっていく、ということであり、「こ」は「き(来)」の未然形。「来(こ)ば」は「未然形+ば」による条件表現であり、ここでは順接。つまり、「忘(わす)らえ(ye)来(こ)ば」は、忘れてしまうから(忘れることができるから)、ということ。だからこそ「汝(な)を(心に)懸けなはめ(かけぬははめ)→あなたをけして(心に)かけなかったのに」→あなたが忘れられない:最後は、こそ→め、という表現ということ)。