「なに(無に)」。「な」は「なし(無し)」の「な」と同じであり、虚無・喪失を、意味性(作用性)や存在性の虚無・喪失を、表現する。「な」の虚無・喪失にかんしては「なし(無し)」の項(1月4日)。「に」は助詞にあるそれであり、客観的な認了進行を表現する。「に」により認了されるのは対象であることもあれば状態であることもある→「家にいる」(家、が認了される)「ぼろぼろになる」(ぼろぼろ、が認了される)。「なに(無に)」の場合、認了されるのは「な(無)」という状態です。「に」により動態が形容される場合、たとえば「赤になる」の場合、動態「なる」が「赤」に形容されるわけですが、「に」が順接になるか逆接になるかは言われていることによって決まる。たとえば「~と言ひに来る」の場合「に」は順接、「そう言ったのに来る」の場合「に」は逆接。「なに(無に)」の場合、「な」で形容される状態は虚無・喪失であり、意味性(作用性)や存在性の虚無・喪失であり、「に」は逆接になる。
すなわち「なに(何)」は、「ないがある」、「ないがしかし」、「ないのに」ということです。たとえば、「なに来(く)る」は、来ることはないのに、来る、来るはずはないのに、来る。人間にそなわる知の作用としてその原因や理由を思考することが発動すれば、なぜだ、なぜ来たんだ、ということになる。原因や理由もわからず妻が怒っている様子であり、夫が妻に「なに怒ってんだよ」。
すなわち、「なに(何)」は、そんなものやことはない、しかしある、ものやこと、を意味し、その矛盾不安が思考を発動させる。そんなものやことはない、しかしある、ものやこと、は存在や正体の不明や不明なものやことも意味し、そのものやことの存在理由、それが起こった原因や理由を人は思考する。その思考発動は、意外なことに遭遇し「なに!?」と言う素朴なものから、理解し得ない量子論実験結果に出会い「これはなんだ…」と呟(つぶや)くようなものまで、いろいろです。
「なにごと」「なにもの」は、無いがあること、無いがあるもの、のような意味となり、不明なこと、不明なもの、を表現する→「なにごとだ」「なにものだ」。「なに」だけで、ないがあること、不明なこと、を意味するようにもなる→「なにをすればいいのかわからない」。
また、ないがあること、ないがあるもの、というこの表現は、自分の個人的体験としてあることは知らないがあるであろうものやこと、あるが、その具体性、特定的個別性の無い、一般的なもの・こと、すべてのもの・こと、も意味する→「なにごとも初めが肝心だ」「なにものにも代え難い」。
「なに」の、ないがある、矛盾表現は、有るはずのない動態があるという矛盾による抵抗感と反発を表現することもある→「(突然意外なことに襲われ)なにをするか!」。
また、その動態への疑問表明にもなる。「夕べは秋となに思ひけむ」(『新古今和歌集』:思ふ、という動態がないがある。その矛盾表明が疑問を表現し伝えている。人の矛盾抵抗を刺激するのです)。「花に飽かでなに帰るらむ」(『古今和歌集』:これは疑問だけではなく反発感も起こっているようです)。
疑問をまづ言い、疑問を感じている事象を続けて言うという倒置表現(文法的には「か」や「や」による係り結び)の疑問表現が「なに(何)」によって強意表現されることがある。「世の中はなにか常(つね)なる」(『古今和歌集』:なんだ、常(つね:永遠)なものとは:これは、そんなものない、という反語表現にもなる:この疑問強意は「なでふ」「なんでふ」でもなされる(「なでふ」の項・1月21日))。
「家に行きてなにを(奈尓乎)語らむあしひきの山霍公鳥(ほととぎす)一声も鳴け」 (万4203:ないがあることを語りたい→ここでの感銘を語り表現することをもたらしてくれ。これは、小さな観光とでもいうようなことをしている場での歌)。
「世間(よのなか)を何(なに)に譬(たと)へむ朝びらき漕ぎ去(い)にし船の跡なきごとし」(万351:「Aをなににたとへむ」は、Aを「Aだ」と認識発生する経過経験したい。しかしそれはないがある経験経過)。
「…逼(せ)め惱(なやま)して言(のたまは)く、汝は曷(ナニ)の僧ぞ、といふ」(『日本霊異記』:『日本霊異記』の真福寺本訓釈で「曷 那爾」。あるがない僧、とは、僧としての真相や正体不明の僧。「曷(カツ)」は『説文』に「何也」とされる字)。
「さだめなく消えかへりつる露よりもそらだのめするわれはなにより」(『蜻蛉日記』天曆八年:「なにより」は、「な」に「汝(な):あなた」がかかり、あなたを頼りにしている、や、「無(な)」がかかり、なにもない、たよりにならない、もの(人)をたよりにしている、ということか。ただし、この部分、一般には「なになり」とされ、国立国会図書館にある元禄時代のものでは「よ」の横に「なイ」と書かれ修正されている。「イ」は異本ということか)。
「因幡国に何の入道とかやいふ者のむすめ…」(『徒然草』:これは名が不明であるか、意図的に伏せているということでしょう)。
「『後(のち)といはずと呑(のみ)なせへナ』『ナニ、よさつしやりまし』」(『道中粋語録』:なに言ふ(なにをおっしゃいますか)、の意)。
「まてといふにちらて(散らで)しとまる物ならはなにを桜に思ひまさまし(増さまし)」(『古今和歌集』:「を」は、目的ではなく、状態を表現し、瀬を早み→瀬の状態で早まり、のように、「なに」状態で増(ま)し、ということ。「なに」の状態で桜への思いが増しもしようか、ということ。「ちらてし(散らでし)」の「し」、は、「鳴きし(奈枳之)渡らば」(万4090)、にあるような「し」。そういう状態でいる、ということ(→(「しゐ(為居)」の)「し」の項))。
「『最後急ぎたし。され共(ども)舌喰切(したくひきり)首(くび)しめるなと世の聞へも手ぬるし。情(なさけ)に一腰かし給へ。なにながらへて甲斐なし』と泪(なみだ)にかたるにぞ座中袖をしほりてふかく哀(あはれ)みける」(『好色五人女』)。
・「なにしろ」: 「なににしろ」。他者の思いや考えや意図や事情がなににしろ、の意。「しろ」は動詞「し(為)」の命令形。「なににしろ」は、何(なに)にでもしろ、それは自由だ、それがなんであれ、の意。
「『何しろ一杯つけな』」(「落語」『塩原多助一代記』:こう言って酒をすすめている)。
「『なにしろ忙しかったもんで…』」。
・「なにがし(何某)」 「が」は所属を表現し、「なにがシ(「なに(何)」が氏)」。「なに(何)」が氏(うじ)であること。「「なに(何)」さん」のような言い方。名を明瞭に言わない他称ですが、人以外の施設(たとえば寺)などにも応用は広がり、謙称たる自称にもなる。
「頭の中将の、すずろなるそら言を聞きて………炭櫃(すびつ)のもとにゐたれば、そこにまたあまたゐて、物などいふに、「なにがしさぶらふ」と、いとはなやかにいふ」(『枕草子』)。
・「なにが」は別項。