◎「なでふ」
「なにとていふ(何とて言ふ)」。「い」は「ゆ」のような音になっているのでしょう、消音化した。これは「なんでふ」とも言う。「なにと(何と)」と思念的に確認される経過によって言ふ、ということであり、その思念的に確認されることが「なに(何)」であり、全く不明であり、わからない(→「なに(何)」の項)。すなわち、どう言ったらいいのかわからない、のような表現であり、言語活動自体が思念的確認が起こらない、言語活動が活性化せず成り立たない、ということであり、自己に関して成り立たないこともあれば、他者に関して成り立たないこともある。「なでふかかるすきありき(好き歩き)をして、かくわびしき目を見るらむ」(『大和物語』:これは自分の「好き歩き」を「なでふ」と言っている)。「なんでふ心地(ここち)すれば、かくものを思ひたるさまにて、月を見給ふぞ」(『竹取物語』:これはかぐや姫の「心地」が「なんでふ」と表現されている)。「清盛は『なんでふ』とて顔をふりければ」(『愚管抄』)、「こは、なでふことのたまふぞ」(『竹取物語』)、「なんでふさる者」(『愚管抄』:なんだそんなもの、のような言い方)。この「なでふ」「なんでふ」では、疑問を言い疑問を感じている事象を続けて言う倒置表現(文法的には「か」などによる係り結び)の疑問表現がこの「なでふ」「なんでふ」によって強意表現されることがある(疑問表現性が強まれば反語性も強まる)。「なむでうさることかし侍らん」(『竹取物語』:そんなことはしない)。
◎「など」
「なにと(何と)」。「なに(何)」はその項参照。「と」は助詞。「なに(何)」は、無いのに有る、という矛盾性を表現しますが(→「なに(何)」の項)、それが事象で表現されればその事象発生への疑問が表現される→「など(那杼)黥(さ)ける利目(とめ)」(『古事記』歌謡18:なぜ刺青のある目なのだ(この歌全体の歌意にかんしては「さき(黥き)」の項))。
この「など」は文法的に「副詞」と言われますが、「助詞」と言われる「など」もある。「なに(何)」の成熟につれ「なに(何)」が表現する不明性・一般性(→「なに(何)」の項)は「有るのに無い」それを表現し、何かに関係したものやことを表現する。「殿の内の絹・綿・銭などある限り取り出てて」(『竹取物語』:関係するもの)、「ゆあみ(湯浴み)などせんとて、あたりのよろしき所におりてゆく」(『土佐日記』:関係すること)、「ただごとにあらず、さるべきもののさとしかなどぞ疑ひ」(『方丈記』:「ただごとではない、なにかの諭しか」と疑った:関係する考察)。 動態の主体が「など」と表現される場合、その主体(さらにはそれによる動態)が無いのに有ることによる効果性が表現される。「雨など降りてしめやかなる夜…」(『源氏物語』)、「かくのごとくの憂婆夷(うばい:出家せずに仏門に入った女)などの身にて比丘(僧)を堀へ蹴入れさする」(『徒然草』)。 動態の目的が「など」と表現される場合、それが目的となることの無いのに有る矛盾性が表現されその動態が与える意味性の深さ、その影響の強さ(ひどさ)が表現される。「いかに、ことにふれて我などをばかくなめげにもてなすぞ」(『大鏡』:どういうことだ。ことにふれてこの私を無礼に扱う)。何かに関係したものやことを表現する「など」は否定表現を強めもする。「そんなことなど無い」、「私などとてもとても…」。「自らなど聞こえ給ふことさらになし」(『源氏物語』:これは主体に「など」がつきさらに否定が強調されている。自ら言うことなどけして無い)。 この「助詞」と言われる「など」は平安時代以降に始まったもののようです。