「なでいひしあひ(な出言ひ為合ひ)」。『なで(な出)』と言いながらお互いになにごとかをし合っている、ということなのですが、どういうことかというと、「な言(い)ひ」(言ってはなりませんよ)というような、柔らかな禁止を表現する語法がありますが(→「な(助・副)」の項)、「な出(で)」は、出てはなりませんよ、ということであり、(全体から)出てはなりませんよと言いながらお互いになにごとかをし合い、全体的になにごとかをしている動態になることが「なでいひしあひ(な出言ひ為合ひ)→なづさひ」。たとえば、無数の鳥が、まるで群れ全体がひとつの生物であるかのように空を舞う。それが「なづさひ」。―全体を客観的に表現すればそういうことなのですが、それを、その無数の鳥の中の一個体たる言語主体で表現した場合、それは、環境と一体化し、環境の動態が自己の動態となっている。そうした動態になることが「なづさひ」。それを象徴するのが鳥の「にほ(鳰)」(カイツブリ)であり、この鳥は常にと言ってよいほど水上におり、その波や流れとともにあり、長く潜水し水と一体化した印象も強い。「にほどりの」は「なづさふ」の枕詞にもなる(他の語の枕詞にもなる)。「なづさひ」の情況にあることを表現する「なづさはり(なづさひあり)」もある。
「…鵜養(うかひ)が伴(とも)は 行く川の 清き瀬ごとに 篝(かがり)さし なづさひ(奈豆左比)のぼる」(万4011)。
「山の端に月傾(かたぶ)けば漁(いざり)する海人(あま)の燈火(ともしび)沖になづさふ(奈都佐布)」(万3623)。
「(源氏は藤壺のところへ)常に参らまほしく、なづさひ見たてまつらばや、とおぼえたまふ」(『源氏物語』:親しく見ていたい)。
「暇(いとま)あらばなづさひ(魚津柴比)渡り向(むか)つ峰(を)の桜の花も折らましものを」(万1750:この「なづさひ」は、思ひのままに、のような意)。
「みてぐらにならましものを すべ神の御手に取られてなづさはましを なづさはましを」(「神楽歌 幣」:「みてぐら」は「ぬさ(幣)」の別称というような語。「ぬさ(幣)」は後世に言う「ゴヘイ(御幣)」(ただし、後世の「ゴヘイ(御幣)」は木の幣串などに紙垂(しで)を挟んだ象徴的なもの))。