「なつきはし(懐き愛し)」。「なつき(懐き)」(その項・1月13日)は時空を超え特別な親愛感のある状態になること。対象が自分に「なつき」の動態状態になっている場合、その対象は自分を迎え入れている状態になっている(→「なつき(懐き)」の項)。「はし(愛し)」(その項)は感嘆のため息・吐息がでるような心情にあることを表現し、それは自分を迎え入れている特別な親愛感への感嘆ですが、歴史的には、それは時空を超えた、その親しい特別な親愛感が長い時間を、歳月を、超越していることへの感嘆を表現する語になっていく。感嘆を生じさせるなにかは人やものであることもあり、ことであることもあり、ある環境一般(たとえば風景)などであることもある。この語を語幹とする動詞「なつかしみ(懐かしみ)」もある。
「霞立つ長き春日をかざせれどいやなつかしき(那都可子岐)梅の花かも」(万846:これは初春の宴席での歌。この「なつかし」は、別れがたい親密さをおぼえる、といったような意味でしょう。昔見た梅がなつかしい、という意味ではない)。
「秋さりて 山辺を往けば なつかしと(名津蚊為迹) 我れを思へか 天雲も 行きたなびく」(万3791(※下記):これも過去を思い出しているわけではない。親密さをもって世界が自分を迎え入れている思いがする)。
「御心さへいとなつかしうおいらかに(大人らしく)おはしまして、世の人いみじうこひ申すめり」(『大鏡』:これも、したしみやすい人柄、ということ)。
「なつかしきほどの直衣(なほし)に、色こまやかなる御衣(みそ)のうちめ(擣目)、いとけうらに透きて…」(『源氏物語』:慣れ親しんだ直衣(なほし))。
「幾年なつかしかりし人々の、さしむきてわするゝににたれど…」(『続猿蓑』上「今宵賦」:幾年もなつかしく思っていながら、会うと、そんなことはなかったかのように普通にそこにいる人)。
「…昔忘れぬ心とて さもなつかしく思出の 時も来にけり 静(しづか)の舞」(「謡」『二人静』:昔の思いがかえる)。
※ この万3791はいろいろと問題の多い長い歌ですが、その冒頭の部分のみを書けば、「緑子之若子蚊見庭」。この「庭」は、一般に「には」と読まれているわけですが、これは「ば」でしょう。「庭」を「ば」と読む例は『万葉集』に他に例はないと思われますが、『日本書紀』推古天皇十八年十月では「立于庭中」を「おほばにたてり」と読み、天武天皇十四年九月では「舊宮安殿之庭」を「ふるみやのあんどののおほば」と読んでいる。「ば」は「場」であり、特別な域であり、それをその特別性をさらに強調し「庭」と書いたわけです。つまり、「庭」を「ば」と読んでも不自然さはない。万3791の上記の部分は「みどりごの わくごかみば」であり、この「みば」は、「みむは(見むは)」。「わくご(若子)」は、特別な子、のような意味の、たとえば大殿(おほとの)に生まれた子のような、子に対する、後世で言う、若様(わかさま)、のような、一種の敬称ですが、「わくごか、みむは(若子か、見むは)」は、見たのは若子か、ということであり、緑子であり、まるで若様を見たようなそれは…、ということであり、以下でその様子が歌われる。この「蚊見庭」という表現はこののちさらに二度ある。