◎「なぞらへ(準へ)」(動詞)
「なさせふりあへ(成させ振り合へ)」。「さ」は無音化し「せふ」のE音U音がO音化している。「Aになぞらへ」は、Aになさせ(Aにし)その振り(現れ)を合わせ、の意。自動表現の「なぞらひ(準ひ)」は、~が合ひ、の意。「なずらへ(準へ)」参照。
「今の世のありさま昔になぞらへて知りぬべし」、「ただわが身ひとつにとりて、昔今とをなぞらふるばかりなり」(『方丈記』(大福光寺本))。
「今の世のありさまむかしになそらへてしりぬへし」(『方丈記』(京都女子大学図書館蔵・請求番号914.42/ A6 図書ID番号008510495-7):この京都女子大学図書館蔵の『方丈記』は「なずらへ」も「なぞらへ」もどちらももちいられ、この書で「なずらへ」とある部分が他の写本で「なぞらへ」になっていたりする。つまり、「なずらへ」も「なぞらへ」も、事実上、同じ意味になっている。表現の違いとしては、「なぞらへ」の方が客観的であり、Aになしその現れとするその事象全体が客観的に表現される。→「なずらへ」参照)。
「あさましう口惜しき御事なれども、おりゐ(譲位)のみかどに準(なぞら)へて、女院と聞えさす」(『栄花物語』:つまり、譲位の天皇は院になるのでそれになぞらえて、ということ)。
「郁芳門、待賢門などは、おほゐのみかど、中のみかどに御所おはしまさねど、なぞらへてつかせたまへるとぞ聞こえ侍る」(『今鏡』)。
「…かの古き事どもにはなぞらへ給ふまじうなむ、とて…」(『増鏡』:自分が、こう、と思い書く古き事どもを現実の古き事どもになぞらへることができるなどと思うのは(それが現実の古き事どもの現れなどと思うのは)間違いだ)。

◎「なぞらひ(準ひ)」(動詞)
「なぞらへ(準へ)」の自動表現。→「なぞらへ(準へ)」の項。
「見ぬ人に形見かてらはをらさりき身になぞらへるいろにかさねは(重ねば:我が身になしうる色として重ねたら)」(『片仮名御撰和歌集』:これは「桜花 色はひとしき枝なれど かたみに見れば(あなただと思って見ても) なぐさまなくに(慰まなくに:慰まることがない(この花よりもあなたは美しい))」という歌の返しだそうですが、「折(を)り」と「居(を)り」がかかっている。歌全体は、見ていないあなたが私の形見として折ったこの花になぞらへられるほど私は美しくありません、という意味にも、見てもいないあなたが私の形見がてらに花を折ることはない(私はこんな花程度だと思ってるの? 関心があるなら会いにいらっしゃい)、という意味にもなる)。

◎「なぞり」(動詞)
「なぞらへ(準へ)」(その項)がAと同じBを現出させることを意味する「なぞり」という動詞の変化(「なぞり・あへ(合へ):物や事の現れ方を追跡し合わせる」)と受け取られ生じた動詞。ものやことの現れ方をそのまま追跡すること。