◎「なずらひ(準ひ)」(動詞)
「なしふりあひ(成し振り合ひ)」。「なずらへ」の自動表現。つまり、「あひ・あへ」のように「なずらひ・なずらへ」は自動・他動の関係にある。「Aになずらひ」は、Aになし(Aにし)、そのAに「ふり(振り)」(様子、現れ)が合ひ、の意。「ふり(振り)」は感覚的に感知される存在の現れになること。すなわち「AをBになずらひ」は、印象において、AをBに成し、Bに振り(その様子、現れ)が合ふこと。AがBになるわけではない。Aが感覚的に感知されるBの現れになる。AはBの印象になる。「なずらへ(準へ)」参照。
「その秋、御封加はり、太上天皇になずらふ御位得給うて…」(『源氏物語』:太上天皇の存在の現れとなるような位を得た)。
「見ぬ人のかたみかてらはをらさりき(折らざりき)身になすらへる花にしあらねは」(『御撰和歌集』(950年代):これは「さくらはな色はひとしき枝なれとかたみに見れはなくさまなくに」(桜をあなたと見ると、こんな桜では心は慰められることはない)という歌の返し。見ぬ人の形見にという思いではをりはしませんでした。我が身になずらへる花ではりませんから(花はあまりに美しく私などになぞらえることはできない)。
「深き心とて、何ばかりもあらずながら、またまことに(琴を)弾き得ることはかたき(難き)にやあらむ、ただ今は、この内大臣になずらふ人なしかし」(『源氏物語』:琴において、この内大臣の現れとなるような人は、今、いない)。
◎「なずらへ(準へ)」(動詞)
「なずらひ(準ひ)」の他動表現「なしふりあへ(成し振り合へ)」。「Aになずらへ」は、Aになしその振(ふ)り(その現れ)を合わせ、の意。「AをBになずらへ」は、AをBになし、その(Bの)存在の現れに合わせること。すなわち、AをBの現れにすること。A・Bはものにかんしてもことにかんしても言う。たとえば、ことの場合、「(なにかの大会をおこない)第100回の記念大会を第1回になずらへておこなふ」は、第100回大会が第1回大会の現れの印象となっておこなわれる。これはことの動機の現れともなり、たとえば、「出張になずらへ(女房以外の)ある女に会いに行く」は、行為の動機「女に会いに行く」を「出張」として現す。
「なずらひ」もそうですが、とくにこの「なずらへ」は「なぞらへ」と事実上同じ意味としてもちいられ、後世は「なぞらへ」が一般的になっていく。「なぞらへ(準へ)」参照。
「古(いにし)への例になずらへて白馬(あをうま)引き」(『源氏物語』)。
「塗路(道のり)をはからひなずらふるに、師今夜必ず至り給ふ」(『三蔵法師伝』:何になずらへるのか表現されていませんが、師の道行をはかり想い、それを経験になずらへ、ということ)。
「壬子(みづのえねのひ(六日))に、蘇我大臣(そがのおほおみ)蝦夷(えみし)、病(やまひ)に緣(よ)りて朝(つかへまつ)らず。私(ひそか)に紫冠(むらさきのかうぶり)を子(こ)・入鹿(いるか)に授(さづ)けて、大臣(おほおみ)の位(くらゐ)に擬(なずら)ふ」(『日本書紀』:自分の息子を私的に、勝手に、大臣であるかのようにしてしまったわけです)。
「右近の陣の御溝(みかは)水のほとりになずらへて、西の渡殿(わたどの)の下(した)より出づる汀(みぎは)ちかくうづませたまへるを、惟光(これみつ)の宰相の子の兵衛の尉(じよう)、堀りてまゐれり」(『源氏物語』)。
「秋の夜の千夜を一夜になずらへて…」(『伊勢物語』)。
「たゝ我身一にとりて昔と今とをなすらふるは(ば)かりなり」(『方丈記』(京都女子大学図書館蔵・請求番号914.42/ A6 図書ID番号008510495-7):これは昔と今、双方を双方の現れとし、双方が比較されることになる。この部分、大福光寺本『方丈記』では「なぞらふる」になる)。
「しかれば、古今の(古今集の)ことばにつきて、なずらへ試みるに、ならの御時よりひろまりたると侍る」(『今鏡』)。
◎「なすり」(動詞)
「なしすり(成し擦り)」。客観的に認了される完成感を生じさせる状態で何か(B)に進行的接触感を生じさせる情況になること。この場合の完成感とは何か(A)と何か(B)との一体感。「なすりつける(なすり付ける)」という表現が一般的であり、「罪(つみ)をなすりつける」といった言い方をしますが、たんに「罪(つみ)をなする」という言い方で同じことを意味したりもする。
「『…頸(あたま)へ青黛(せいてへ)を泥(なす)つて、チト否身(いやみ)たつぷりの拵(こしら)へ』」(「滑稽本」『浮世風呂』)。
「『…斯(か)う云つて、可愛さうに酒に咎(とが)をなするンぢやァねへが…』」(『「滑稽本」『浮世床』)。