「ながから」。「が」は、文法的には、 「母が手」(母の手)のような、連体助詞ということなのでしょうけれど、「見えぬがごとく」(万3625)のような、「見えない」という事象が主格として働いている「が」、つまり、格助詞といった方がわかりやすい「が」です。格助詞の「が」とは、たとえば、「彼が来る」の「が」。つまり、「ながから→ながら」は、そういう意味で、「な」が「から」、ということ。
「な」は全的な完成感のある認了を表現し、「AなB」はAが均質化した属性であるB(Aという属性であるB)を表現する。つまり、これはいわゆる「格助詞」の「な」と同じ(→「な(助・副)」の項)なのですが、格助詞の場合はA・Bはものですが(「瓊(ぬ)な音(と)」(玉の音))、「ながら」の場合は動態(たとえば、Aながら、の場合の、A、が、行き)や情況であり、「A(行き)な」が「B」、の「B」は「から」です(行き・な・が・から→行きながら)。それが「ながから→ながら」。
「から」はそれがなければ生体として存在しない情況・そうした情況たるもの・こと(→「から」の項)。「はらから(同胞:腹から)」は、ある腹(はら)がなければ生体として存在しない情況・そうした情況たる人たち。そうした情況たる動態としては、たとえば、Aから来る、は、Aが、それがなければ生体として存在しない情況・そうした情況たる来る、であることが表現され、Aが、来る、の起点・発生点であることなどが表現される。
すなわち「「Aな」が「から」→Aながら」は、Aであることが認了されることがそれがなければ生体として存在しない情況・そうした情況たるもの・ことであることが言われる。「AながらBする」は、Aであることが認了されることがそれがなければ生体として存在しない情況・そうした情況とあり、Bする。
「神ながら国を治める」(神であることが認了されることがそれがなければ生体として存在しない情況・そうした情況とあり、国を治める)。
「牛ながら車(牛車)を引き入れる」(牛であることが認了されることがそれがなければ生体として存在しない情況・そうした情況とあり、車(牛車)を引き入れる(牛ごと車を引き入れる))。
「涙ながらに訴える」。
意味的均質感が形容詞で表現されることもある→「恥ずかしながら」。
Aが客観的に状態として認識されている動態である場合もある→「(本が)櫃(ひつ)に入りながら(本を)得て帰る」(櫃に入った状態で)。「(袋を)帯び続けながら歩く」。
Aが形容詞であったり動詞であったりする場合、「卑しながら」(終止形)・「卑しきながら」(連体形)、「言ひながら」(連用形)・「言ふながら」(連体形)のいずれもある。表現が客観的である場合、「~こと」や「~もの」が省略されたような表現になり、連体形になり、そうでない場合は終止形や連用形になる(ただし、連体形は希(まれ))。
ある動態と他の動態、ある情況と他の情況が社会的・意味的・価値的に均質な関係にあることが表現された場合、具体的事情次第では、それがある動態やある情況による期待や予想と異なっている場合もあれば、そうでない場合もある。たとえば「見ながら食べる」と言ったばあい、それは動態的に均質な同動態的進行、動態の(「見る」と「食べる」の)同時進行、を表現することもあれば、主体が重い病気で、それが好きであってもけして食べてはいけない特別な事情があり、それを食べることの有害性を表現するビデオをその直前に見ていた場合、「見ながら食べる」は、見ているにもかかわらず、の意にもなる。「そう言いながらやらない」などもそうした表現である。「我ながら良くできた」は、無能な私だが、の意でも、有能な私そのままに、の意でも、どちらの意味でも言える。すなわち同時進行なのか逆説なのかは個人的社会的にどのような経験が常態であるかによって決まる。「宵(よひ)ながら(夜が)明ける」―この経験は誰にでも普遍的であり、宵(よひ)なのに、という逆接(夜が完成しながら(夜になりながら)夜が明けることはありえない)。「学校に行きながら授業に出る」「学校に行きながら授業に出ない」。
「高山(たかやま)と 海こそは 山ながら かくも現(うつ)しく 海ながら しか真(まこと)ならめ…」(万3332)。