◎「ながめ(眺め)」(動詞)
「ながかはめ(長川目)」の動詞化。「ながかはめ(長川目)」は、長い川の目、ということですが、どういうことかというと、「見ること」、「見(み)る」という動態、それが、長い川が流れ、地平の彼方へ見えなくなっていくようであること。あるとき、ある人の「見(み)る」という動態がそんな印象になっていれば、その人はそのとき「ながかはめ(長川目)→ながめ」になっている。それが動詞化し、そのときその人は「ながめ(眺め)」ている。なにかを見ていてそうなっているとき、「見ること」はそこにとどまらず、流れていく(見られたなにかはその人の心にとまらず流されていったりもする)。なにかを見ることが、見ているその人の思いを彼方へ流すような心情にさせ、その人はそれを「ながめ(眺め)」ていたりもする。
「是(ここ)に天皇(すめらみこと)、其(そ)の他(あだ)し女(をみな:自分が言った女ではない他の女)なることを知(し)らして、恒(つね)に長眼(ながめ)を經(へ)しめ…」(『古事記』:この「ながめ」は名詞。物的に特に遠ざけたりはしなかったのでしょうが、心的に近づけず、距離感がおかれ、見ていた。心はその女にとまらず、彼方へ流れている)。
「北野の千貫松、淡路の万貫松にもおとらず、是(これ)ちとせの詠(なが)めなり」(『西鶴織留』:これは見ているものに心が奪われ彼方へ行ってしまっているような状態になっている。「詠」という字は同音の「ながめ(詠め)」をかけたもの)。
「なかめつるあしたの雨の庭のおもに花のゆきしく春の夕くれ」(『山家集』)。
「見し人の煙(けぶり)を雲とながむれば夕べの空もむつましきかな」(『源氏物語』:この煙は火葬のそれ)。
「『余(あまり)にながめ居て、御方(みかた)の弱り為出したらんも由なし、いざや今は懸(かけ)合(あは)せん(ともに行こう)』といへば、河野、『子細にや及ぶ』と云侭(まま)に、両勢を一手に成て大勢の中へ懸入り、時移るまでぞ戦ひたる」(『太平記』:ただ漫然と見ていること)。
「ほとときす鳴きつるかたをなかむれはたたあり明の月そのこれる」(『千載和歌集』)。

◎「ながめ(詠め)」(動詞)
「ながめ(眺め)」が言語表現に影響して生まれた表現。「ながめ(眺め)」はその項。声をのばし歌うように詩歌などを表現することを言う。
「伊等尾(いとみ:村の首(をびと)の名)が新室(にひむろ)の宴(うたげ)に因りて、二(ふたり)の子等(みこたち)に燭(ひとも)さしめ、仍(よ)りて詠辭(ながめごと)を挙げしむ。……すなはち弟(おと)立ちて詠(なが)めき」(『播磨風土記』:この「ながめごと(詠辭)」は歌うようになにごとかを(具体的には、自分たち兄弟の来歴を)言った。その言語表現が、音声的に、長い川が流れ遠くへ行くような印象のものなので。それが、「ながめ(眺め)」(その項)に影響されている「ながめ(詠め)」)。
「三月の廿日余の比、花の盛にて、南面の桜艶(えもいは)ず栄(さき)乱れたりけるに、院、寝殿にて聞かせ給ければ、南面の日隠しの間の程に、極(いみ)じく気高く神さびたる音(こゑ)を以て、「こぼれてにほふ花ざくらかな」と長めければ…」(『今昔物語』:姿の見えない「物の霊」のようなものが「こぼれてにほふ花ざくらかな」(『拾遺集』にある歌の一節)と歌うようによむ声が聞こえた)。
「月の夜の 聲もほそめに 窓あけて 心をやれる うたなかめかな」(『夫木和歌集』)。
「……ものあやしき聲するを、「こはなにぞ」と問ひたれば「鹿のいふなり」といふ。などかれいの聲には鳴かざらむと思ふ程にさし離れたる谷の方より、いとうらわかき聲にはるかにながめ鳴きたなり」(『蜻蛉日記』)。