「なきは(無き端)」。「きは」がH音が退行化し「か」になっているわけです。「は(端)」は部分域を意味する。「なきは(無き端)→なか」は、意味としては、虚無化、空虚化している(存在しない)部分域たるもの・こと。部分域のないものやこと、部分域のない世界を意味するわけです。
・語が対象を表現し、「なきは(無き端)→なか」が対象に部分域がないことを意味する場合、それは全体を意味する。その場合、対象はあり端(は)がない、対象に部分域がない。それが存在しない、もの・こと、であり、それは全体を意味する。
「難波より船に乘りて、海の中に出でゝ、ゆかんかたもしらず覺(おぼえ)しかど…」(『竹取物語』:海の海たるそこへ出た。ほかにはなにもない)。
「春の御方たがへの行幸のついでに中一日おはします」(『健寿御前日記(別名:建春門院中納言日記・たまきはる)』)。
・語が動態を表現し、「なきは(無き端)→なか」が部分域がないことが対象であることを意味し、対象として端(は:部分域)がない、端(は)がないことで対象はあるその対象を認識する動態が表現される場合、「なきは(無き端)→なか」は、存在の、それがあることの、中枢を意味する。なぜなら、その逆へ向かった場合、それは、有るそれ、がないことへ向かっているということであり、そこには「有るそれ」ではないなにかがあり、そこは「有るそれ」の「はし(端)」であり、「は(端)」はあり、「なきは(無き端)」にならないからです。「それがあることの中枢」における「それ」はものもあればこともある。
ものの場合、たとえばそれが球体なら、その存在の中枢へ向かうことはその球体の中心へ向かう。それが線であれば、線上を両端から全くの等速度で逆方向へ向かった場合に線上で出会う点たる、線におけるそこを意味する。それらは「まなか(真中)」「まんなか(真に中)」という。
「こと(言・事)」の場合、ある時間経過の始まりでもない終わりでもないその間域や(→「夜中(よなか)」。「どっと笑うなかで、先生も一しょに笑いだしながら鉛筆を動かし、その呼び名をも出席簿に小さくつけこんだ…」(『二十四の瞳』))、社会的価値評価の上位でもない下位でもないその間価値域といった意味にもなり、人と人の関係であればどちらの人のことでもないその間域→関係、という意味にもなるが(→「あの二人はなかがいい」)、それがあることの中枢とは、それがあることによってそれがある、ことの本質であり、真理を意味する。日本神話において初めに成れる神としてある「なか」とはそういう意味です。「天地(あめつち)初(はじ)めて發(ひら)けし時(とき)、高天(たかま)の原(はら)に成(な)れる神(かみ)の名(な)は、天之御中主神(あめのみなかぬしのみこと)」(『古事記』:「天地初發之時(天地(あめつち)初(はじ)めて發(ひら)けし時(とき))」とは、それが始めて現れたときであり、知的生命体たる人の認識が始まったときです)。
「をちこちの礒の中なる(中在)白玉(しらたま)を人に知らえず見むよしもがも」(万1300:「白玉(しらたま)」は真珠)。