◎「な(愛称)」
「背・夫(せ)」や「妹(いも)」などに親愛をこめた愛称のようにつく「な」がある。「ねな(音な)」。「な」はなにごとかを認了しまするが、それにより感銘も表現される。「~ねな(音な)→~な」は、~という響き、という感銘を表現する。たとえば「ねなせ(音な背)→なせ」は、音(ね)なる、背(せ)、ということであり、音(ね)なる、特別な意味や価値のある、背(せ)、ということ。「なにも→な(ねな)のいも妹(いも)」もそのような妹(いも)。
これらの語は「我(わ)が背(せ)」や「我(わ)が妹(いも)」と言っている印象を与え、この「な」は一人称だという説もありますが、そうではないでしょう(→「な(二人称)」の項・12月7日)。<br/>
「爾(ここ)に伊邪那美命(いざなみのみこと)答へ白(まを)ししく。「…………然れども愛(うつくし)しき我確(わ)が那勢の命(みこと) 那勢(なせ)の二字は音を以ゐよ 下は此れに效(なら)へ…」」(『古事記』)。
「愛(うつく)しき我が那邇妹(なにも)の命(みこと)、吾(あれ)と汝(いまし)と作れる国、未(いま)だ作り竟(を)へず」(『古事記』)。
「いとこ 汝背(なせ:名兄)の君(きみ)…」(万3885:これは、親愛なるみなさま、のような意。→「いとこ(愛子)」の項。これは、後世で言えば、大道商人の売り口上の冒頭のようなもの)。
「なせのこや とりのをかぢし なかだをれ あをねしなくよ いくづくまでに:奈勢能古夜 等里乃乎加恥志 奈可太乎礼 安乎祢思奈久与 伊久豆君麻弖尓」(万3458:冒頭は「なせ(な背)」にさらに愛情表現として「のこ(~の子)」がついているわけですが、この歌は全般的に、歌意未詳、とされるものです。その歌意ですが、「な背の子や 鳥の尾搗ぢし 泣き撓折れ(なきたわをれ) 吾を音し泣くよ 息づくまでに」ということでしょう。「鳥の尾搗ぢ(とりのをかぢ)」は、「搗(か)ぢ」は、たとえば餅を搗(つ)くように、打つことであり、濁音は持続・連続を表現し、それが鳥が尾を振るようにおこなわれる。雌鳥と雄鳥がそうしている。そのように人がしている。「泣き撓折れ(なきたわをれ)」は、「たわ(撓)」は外力に対し柔軟な印象になっていることであり、「撓折れ(たわをれ)」は、背を反らし体が柔らかくのけぞり湾曲したような状態になっている。この歌を歌った女がそうなっており、そのとき女は泣いている(歓喜で)。それがつづき「吾(あ)を音(ね)し泣くよ(私は声をあげなく)。「いくづく」は、息(いき)ゆ突(つ)く。「ゆ」は助詞。息がとぎれとぎれに何かに突きあてるような状態になること。この場合は、苦しそうに喘ぐ、のような意味ですが、死にそうな場合にも言う。「いくづくまでに」は、それほどまでに、ということ。つまり、これはそうとうに官能的で露骨な歌なわけです。ただし、それがどういう情況で歌われたのかということになると、たぷん、中年のおばさんたちが、エロ話もしてげらげら笑うような場で生まれているのではないでしょうか。ちなみに、これは東歌です)。

◎「な(菜・肴)」
「にゑは(煮餌端)」。「ゑ(餌)」は食べ物を意味する。煮(に)る食べ物たる部分、の意。「煮物端(にものは)」のような言い方。煮るといっても、さまざまな調味料を入れて調理し、という意味ではない。ただ水にいれて加熱する。あるいは、加熱した湯(ゆ)に入れる。「は(端)」はそうするさまざまなものの部分。煮て食べ物になる部分。つまり、「にゑは(煮餌端)→な」は、料理の素材です。料理と言っても、水で煮るだけ。この語が食用の植物や動物を意味する。動物はほとんどが魚。獣系が言われないのは、それらは肉をとりわけ串にさすなどして焼いたからでしょう。魚、とりわけ小さな魚はそれはやっていられない。まとめて煮る。「さかな(魚)」という語の「な」もこの語。
「前妻(こなみ)がな(那)乞(こ)はさば 立柧棱(たちそば)の 実の無けくを………後妻(うはなり)がな(那)乞(こ)はさば…」(『古事記』歌謡10)。
「この岡に 菜(な)摘ます子」(万1)。
「甲戌(きのえいぬのひ)に、越(こし)の蝦夷(えみし)八釣魚等(やつりなら)に賜(ものたま)ふ。…魚、此をば儺(な)と云ふ」(『日本書紀』)。
「足姫(たらしひめ)神の命(みこと)の魚(な:奈)釣らすとみ立たしせりし石を誰(た)れ見き 一云 鮎(あゆ:阿由)釣ると」(万869)。
「菜 ……クサヒラ」「真菜 …マナ」「肴 …サカナ」 (『類聚名義抄』:「肴(カウ)」は『説文』「啖也」とされる字であり(「啖(タン)」は食うことを意味する)、『廣韻』に「凡非穀而食曰肴亦啖也」とされる字。つまり、(穀物以外の)食い物。「真菜(まな):全的に信頼できる食用植物・動物」という語があるということは、食用植物・動物(「な(菜)」)とそうでない植物・動物との間にそうとうあいまいな領域があり、なにを食べるか完全には安定していなかったから、ということでしょう)。