◎「どろばう(泥棒)」
「ドロンバウ(度論亡)」。「度(ド)」は、仏教における、彼岸(極楽)へ行くこと。「論(ロン)」は論じることであり、知的に考え学ぶこと。「亡(バウ)」は滅(ほろ)びなくなること。「ドロンバウ(度論亡)」は、「度(ド)」も「「論(ロン)」」も、彼岸へ行くことも考えることも、すべてが亡(ほろ)び去っていること、者。十八世紀頃、京阪では道楽や放蕩、それをする者を「どろばう」と言った。人格破綻者、のような意です。もうだめなやつ、のような意。関東では盗み、盗人を言うようになる。
「方外なる物を関東にて・だうらくと云大坂にて・どろばうと云……………又どろばうとは東国にては盗賊を云」(『物類称呼』五巻:「方外(ホウガイ)なる物」とは、人の道としてなりたたず社会の一般的あり方もなりたたない、理性などなりたたないとんでもないやつ、ということですが、関東では「だうらく(道楽)」が大坂では「どろばう」。「どろばう」は東国では盗賊)。
「ねたるひまに、はながみぶくろなどあくる女。上らう(臈)にはかやうのどろぼうはあるまじけれど」(「評判記」『けしずみ』:客が寝ているあいだに客の財布をひらいて…ということ)。
◎「どわすれ(度忘れ)」
「ドわすれ(度忘れ)」。「度(ド)」は『説文』に「法制也」とされる字であり、「法制」とは想の整えであり(→「ちゃうど(丁度)」の項)、ここでの「度(ド)」は、その想が整えられた、現実化した、そのとき、の意。「マイド(毎度)」(毎度ありがとうございます)や「つど(都度):「都度(つど)」は和製漢語」(そのつど彼のところへ行って…)にあるような「度(ド)」。つまり、そのとき、その折、その際、の意。「ドわすれ(度忘れ)」は、その「度(ド))」になにごとかを忘れること。普段は覚えている、覚えているはず。しかし、なにごとかに遭遇しているその際になにごとかを忘れる。それが「ドわすれ(度忘れ)」。
「あの人の旦那さんの名前はねぇ…。なんだっけ。ど忘れした」。