◎「どれ(何れ)」
「でをらへ」。「でを」が「ど」になり「らへ」が「れ」になっている。「でを」にかんしては「ど(何)」の項(9月9日)。「らへ」にかんしては「れ」の項(「あれ」「これ」「それ」などの「れ」)。
「でを」の「で」は「~であり→~だ」にあるそれであり、断定根拠を表現し、「を」は目標を表現することにより希求を表現し(→「ど(何)」の項) 、すなわち、「でを」は断定根拠への希求を表現し、「ら」はなんらかの情況にあることを表現し、「へ」は助詞にあるそれであり、方向性を表現し、「らへ」はなんらかの情況へ向かう方向性にあることを表現する。つまり、「でをらへ→どれ」は、断定根拠を希求する情況方向にあること。断定根拠を希求しているということは、それがない。探し、求めてはいる。しかし、無い。それが「どれ」。
この「どれ」という言い方はたぶん平安時代後期、それも相当後期に俗語的に始まったものでしょう。
「熊野へ参るには、紀路と伊勢路のどれ近しどれ遠し」(『梁塵秘抄』)。「どこ(何処)」のような意味で、空間地点や、「だれ(誰)」のような意味で、人を表現したりもする。「比叡の山はどれより坂本と申す」(『義経記』:どこ)。また、「どれ」は不明確認の意思表明にもなる。「どれ、見さっしゃれ」(「狂言記」)。
◎「とろ」
この「とろ」は「つおろ(つ粗)」。「つ」は同動を表現し(「つれ(連れ)」(8月5日)その他の項)、「おろ(粗)」は空虚化した構成を表現する(その項)。つまり「とろ」は同動たる構成の空虚化した状態、固体が液状化していったりするその崩壊・溶解状態を表現する擬態。二音重なり「とろとろ」と表現されることが多い。現象や人の意識状態を表現することもある。「とろび(とろ火)」。「とろとろ微睡(まどろ)む」。これが語幹になった形容詞「とろし(蕩し)」もある。濁音が持続(この場合はそれによる粘着)を表現した「どろ」もある。
「入道(平清盛)は始より横目もせず、打頷許々々(うちうなづきうちうなづき)よだれとろとろ垂(たら)して見入給へり」(『源平盛衰記』)。