◎「とりゐ(鳥居)」
「とほりゆひ(通り結ひ)」。そこを通ることが結(ゆ)ひになるもの。通ることで何かと何かが結われるわけではない。「ゆひ(結ひ)」は同じ経験経過努力をすることであり、「通り結ひ」は、通ることが何かに対し同じ経験経過努力になるものです。神社域の出入り口などに設置され、そこを通行する域と域の境界施設。基本的な形体は、下部へやや広がった二本の立柱と、その頂で立柱を渡しその両端が立柱の設置幅より少し伸びた横柱、その少し下に同じように設置された横柱をそなえたもの。長い門中の頂とそのやや下部に横柱を渡したような印象のものです。その二本の立柱の間をくぐるように通行する。「鳥居」という表記は、その語が鳥の居るところ、つまり鳥の止まり木を思わせたからでしょう。形体的にもそのように見える。設置の動機は、ある域を特別な意味のある域として示す、ということでしょうけれど、いつ、どこからはじまったかは明瞭ではありません。
「雞栖 ……………鳥居也」(『和名類聚鈔』(930年代):ここで言われる「鳥居」が神社などにあるそれを意味しているかは疑問です。この語は『和名類聚鈔』の「居處部」「門戸類」に書かれており、通常の住居の施設として言われている。これは「雞栖」(雞(にはとり)の栖(すみか))を説明しただけなのかも知れない。つまり、鶏の止まり木。これが粗末な門を意味しているのではないでしょうか)。
『皇太神宮儀式帳』(804年)には「於葺御門(うへふけるごもん)」「於不葺御門(うへふかざるごもん)」という語はありますが、「とりゐ」という語はない。
「鳥居肆基…社前後各一基」(『和泉国大鳥神社流記帳』(922年):これは、後世でも当たり前にある、神社の鳥居です。亡くなった日本武尊(やまとたけるのみこと)は白鳥と化し、この大鳥神社はその白鳥が舞い降り羽をやすめた地の一と言われている。なので羽をやすめていただくために鳥居(鳥の止まり木)を、という動機は働いたかもしれませんが、この大鳥神社がきっかけとなり日本中の神社がそれを設置するようになったとは思われない)。
◎「とりよろふ」
「とりよりおふ(取り寄り追ふ)」。選択し、接近し、追跡する、ということ。これは『万葉集』の歌にある表現ですが、「山常庭(やまとには) 村山有等(むらやまあれと) 取與呂布(とりよろふ) 天乃香久山(あまのかぐやま)…」(万2)。「有等」は一般に「あれど」と読まれますが、この歌は「とり(取り)」に「とり(鳥)」がかかり、鳥たちが、群山あれ…(たくさん山があるが…)と寄り、追ひ、ということではないでしょうか。「むらやまあれど」→ほかにもたくさん山はあるだろうが、やはり…、という思考は鳥に不似合いでは。 そして選び、寄り、心ひかれ追う天乃香久山(あまのかぐやま)…そういう表現でしょう。この表現は一般的表現とは思われず、「とりよろひ」という動詞が一般的にあったとは思われない。