◎「とりあへず(取り堪へず)」
動詞の語頭に「とり(取り)~」のついた表現は非常に多いですが、「とりあへ(取り敢へ)」は、「とり(取り)」は思念化したなにごとかが存在として「あり(有り)」の情況になっていることであり(→「とり(取り)」の項)、「あへ(敢へ)」は(自己の)全的完成感を働きかけることであり(→「あへ(敢へ)」の項)、「とりあへ(取り敢へ)」は、思念化したなにごとかが存在として「あり(有り)」の情況になっている状態において(自己の)全的完成を努力すること。客観的情況を受けそれに応じ(自己の)全的完成を努力する。さまざまな対象を調和するように全体化する「とりあへ(取り和へ)」という表現もある。
「御ともの人は、とりあへたるにしたかひて、京のうちの御ありきよりもいとすくなかりつる、と人人いとほしかりなとするほとに…」(『蜻蛉日記』:そのときにでき得る限りの努力で自己を完成させる努力をした)。
この「とりあへ(取り敢へ)」は否定で表現されることが多く、それでしかもちいられない状態になっていく。環境情況に対応しなしうる努力をし、という表現が、環境情況に対応し完全な自己完成はできず(なし得る限りのことをし)、という表現になっていく。それが「とりあへず(取り堪へず)」。
「『高潮といふものになむ、とりあへず人そこなはるるとは聞けど、いと、かかることは、まだ知らず』」(『源氏物語』:これは、ただ対応できず波にのまれ死んでいく)。
「…とよみてやれりければ、蓑も笠もとりあへで、しとゞに濡れてまどひきにけり」(『伊勢物語』:雨具のしたくもできないあわてた状態で)。
「このたひ(旅・度)はぬさ(幣)もとりあへすたむけ山紅葉(もみぢ)の錦(にしき)神のまにまに」(『古今和歌集』:突然のことで幣(ぬさ)の用意もできていない)。
「取り敢へざりければ、先づかつがつ三百余騎を奉りける」(『義経記』:なしうる限りでまづは三百余騎程度を)。
「海水浴は追って実行する事にして、運動だけは取りあえずやる事に取り極(き)めた」(『吾輩は猫である』(夏目漱石))。
「(居酒屋に入り、坐り、店員が注文を取りに来て)『とりあへずビール』」。

◎「とりがなく(枕詞)」
地域名「あづま(東)」にかかる枕詞。「取(と)り、「が」無(な)く」、東(あづま)→取ってしまい、「が」がなく、東(あづま)。つまり、「あづま」には「が」があり、「あづま」に「が」があると「あがつま(吾が夫・妻)」。「あづま(東)」は「あがつま(吾が夫・妻)」(私の最愛の人)だと言っている。この表現が生まれたことには、東(あづま)は辺地で、そこの者たちの言っていることは鳥が囀(さへづ)るようでよくわからない、と言われたりする背景もあったのでしょう。古くは、外国人もそうですが、地方者などが方言その他により聞き分けにくい話し方をしているとこれを「さへづる」と表現し、小鳥がしきりに鳴いていることも「さへづる」と表現した。「あやしきしづのを(賤の男)のさへづりありくけしきどもまで色ふしに立ちがほなり」(『紫式部日記』:「色ふしに立ちがほ」は、晴れがましいような様子があらわれている、のような意。ここでは「しづのを(賤の男)」たちの喋(しゃべ)り方が「さへづり」→「さひづり(囀り)」の項)。
「とりがなく(鶏之鳴) あづまのくにの(吾妻乃國之) みいくさを(御軍士乎) 召したまひて…」(万199)。
「とりがなく(等里我奈久)東(あづま:安豆麻)をさして…」(万4131)。