◎「ともし(灯し)」(動詞)
「ともしりび(供知り火)」→「ともしび(灯火)」(「り」は消音化した)が、「ともした(灯した)」火(ひ)、のように受け取られ「ともす」という動詞が生じた。「とも(共・友・伴)」にかんしてはその項(11月10日)。「ともしりび(供知り火)」は、夜間、みなで何処かへ(とくに、海上へ)行った際、人が何処にいるのかそれぞれが知り迷わないようにするための火。その結果「ともしび」は単なる火ではなく、希望を感じるような火を表現し、動詞「ともし(灯し)」も、単なる着火や燃焼ではなく、何かを願ったり希望を開いたりするような印象を表現する。
自動表現「ともり(灯り)」もある。
「海原(うなはら)の沖辺(おきへ)に灯(とも)し(等毛之)漁(いざ)る火は明(あ)かして灯(とも)せ(登母世)大和島(やまとしま)見む」(万3648:遭難、漂流し、苦しみ大和方面へ帰って来た者の歌)。
「灯火(ともしび:等毛之火)の光(ひかり)に見ゆるさ百合花ゆりも(後も)逢はむと思ひそめてき」(万4087)。
「『火が燈(ともつ)て有る』」 (「狂言」『子盗人(こぬすびと)』)。
◎「ともし(羨し・乏し)」(形シク)
「とめほし(求め欲し)」。「とめ(求め)」はその項(11月9日)。「ほし(欲し)」は、何らかが「ほ(秀)」であることが一般的であるということですが(その項)、何らかが「ほ(秀)」であるとは、特異的・特起的な心情的発生がそこにあるということ。「とめほし(求め欲し)」は原意的に言えば、「ともえほし(と燃え欲し)」ということですが、思念化したなにかに対し体内が熱く燃えるような思いになっていること、それを希求し欲求していること、が表現される。ことに、たとえばある人の容姿や社会的立場に、「ともし」という思いになっているとき、自分はその容姿や立場になれず、それは「うらやましい」という羨望の思いにもなる。自分にはなく、手のとどかない「すばらしいそれ」という思いにもなる。それが特に物のばあい、それを欲するということはそれが不足していることも意味する。「とぼしき人」は生活の資が恒常的・一般的に不足している人。この後者の意味を、不足しているそのものやことにかんし意味明瞭的に表現するため「とぼし(乏し)」(11月5日)という語が生まれている。
「山見れば 見のともしく(見能等母之久) 川見れば 見のさやけく ものごとに 栄ゆる時と…」(万4360:世界として希求し山の雄大さや美しさに心が奪われている)。
「見まく欲り来(こ)しくもしるく吉野川音のさやけさ見るにともしく(友敷)」(万1724)。
「日下江(くさかえ)の 入江(いりえ)の蓮(はちす) 花蓮(はなばちす) 身の盛り人 ともしきろかも(登母志岐呂加母)」(『古事記』歌謡:「身の盛り人」は手のとどかない彼方にいる。これは雄略天皇記にある「赤猪子」の歌。「ろかも」にかんしては(同母関係の)「ろ」の項。)。
「心なき雨にもあるか人目守(も)り乏(とも)しき妹に今日だに逢はむを」(万3122:希求し妹に心が奪われているのであるが、人の目がありなかなか会えない妹(つまり、不足している妹))。
「あさもよし紀人(きひと)ともしも(乏母)真土山(まつちやま)行き来(く)と見らむ紀人ともしも(友師母)」(万55:「真土山(まつちやま)」は奈良県・和歌山県境。「紀人(きひと)」は紀伊(きい)の国(和歌山県と三重県南部)の人であるが、行きにも帰りにもその山を見るからうらやましいと言っている)。
「…何しかも(どうしてだ) 秋にしあらねば(秋でなければ) 言どひの ともしきこら(等毛之伎古良)…」(万4125:言とひしたいのにそうしたくてもできない二人。これは七夕の歌)。
「此国巳往、多有福舎。以贍貧匱。或施薬。或施食」(『大唐西域記』巻第四 礫迦国:「以贍貧匱」が長寛(1163-65)年間の読みで「貧匱(とも)しきに贍(にぎ)はひて」。「贍(セン)」は『説文』に「給也」とされる字。意味は、援助する、救う、足りるようにする、といったこと。「にぎはひ」は、後世の、お店が賑(にぎ)はふ、のような意味ではなく、幸福感のある穏やかな状態になること。ようするに、この国は、ともしいなか、布施などもしてくれる国、ということ。西域へ行った僧・玄奘らが布施を受けたわけです)。
「西国柳樹全(もはら)稀(トモシ)」(『南海寄帰内(キキナイ)法伝』:非常に少ない)。
「便(すなは)ち財(たから)有(あ)るものが訟(うたへ)は石(いし)をもて水(みづ)に投(な)ぐるが如(ごと)し。乏(とも)しき者(もの)の訴(うたへ)は水(みづ)をもて石(いし)に投(なぐる)に似(に)たり。是(ここ)を以(も)て貧(まづ)しき民(おほみたから)は所由(せむすべ)を知(し)らず」(『日本書紀』)。
「今だにも目な乏(とも)しめそ相見ずて恋ひむ年月久しけまくに」(万2577:これは「ともしい思いをさせる」という意味の、「ともし」を語幹にした下二段活用の動詞になっている。(もうそんなことはないでしょうに)いまだに、見ているだけでともしい思いにさせるようなことはしないで。もう会えず長い年月を経るだろうから)。