「とも」(助詞)
二種の「とも」。
(1)思念的になにかを確認する「と」と、「AもBも」のような、累加の「も」による「とも」。
それによる表現の三種。
(ⅰ) 「~と」でなにかが思念的に確認され、「~も」で、その思念的に確認されたなにかに累加してなにごとかがあることが言われる。この表現は、「~と」で、一般にそういうはありそうもないことが言われ、「~も」以下で、それがあることが言われ、あることの思いの強さや貴重さ意外さなどが表現される。
「八田(やた)の 一本菅(ひともとすげ)は 独(ひとり)居(を)りとも 大君し(おほきみ)し よしと聞こさば 独居(ひとりを)りとも」(『古事記』歌謡:普通は独(ひと)りはつらいのでしょうけれど、大君が私を認めてくださるなら、つらくはありません)。
「白珠(しらたま)は人に知らえず知らずともよし知らずとも我れし知れらば(私が知っているなら)知らずともよし」(万1018)。
「高圓(たかまと)の峰(を)の上(うへ)の宮は荒れぬとも立たしし君の御名(みな)忘れめや」(万4507)。
「角(つの)の浦廻(うらみ)を 浦なしと 人こそ見らめ 潟(かた)なしと 一云 礒(いそ)なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟は 一云 礒は なくとも…」(万131:潟(かた)はなくともどうなのかは続いて言われる)。
「たとひときうつりことさりたのしびかなしびゆきかふとも、このうたのもじあるをや」(『古今和歌集』序)。
「かくさし籠めてありとも、かの国の人来(こ)ば、みな開(あ)きなむとす」(『竹取物語』)。
(ⅱ) これも思念的に確認する「と」と累加の「も」なのですが、「~と」で確認されたなにかが累加して繰り返し言われ、それにより、「~と」で確認されることが強調される。
「太秦(うつまさ)は神とも神と聞(きこ)え来る常世(とこよ)の神を打ち懲(きた)ますも」(『日本書紀』歌謡:「きため(矯め)」は、矯正する、のような意)。
「我がためにかつはつらしと御山木(みやまき)のこりともこりぬかかる恋せし」(『御饌和歌集』:「み」には「御(み)」と「見(み)」、「こり」には「伐(こ)り」「凝(こ)り」「懲(こ)り」がかかっている)。
(ⅲ) これも思念的確認する「と」と累加の「も」なのですが、「~と」で確認されたなにかが累加してさらにあることが表現されつつ累加された以下の表現は省略される。それにより、「~と」で確認されることが強調される。たとえば「いいとも」は「良いとも良い」の二番目の「良い」が省略される。この表現は、たぶん室町時代ころ、に現れた日常的な口語表現。
「『其時分は定(さだめ)て私をもくはつと取立て被下(くださ)るゝで御ざらう』『ヲゝ、取立てやらう共(とも)』」(「狂言」『止動方角』)。
「『…彼(あ)の小町田を見イ。此頃は放蕩をはじめたといふ事じやぞ』『ほんとうにか。あの勉強家が』『ほんとうとも。大(おほ)事実じや』」(『当世書生気質』)。
(2) 「見(み)とも」の「とも」。
これは「みてをも(見てをも)」。見た状態を累加し、見た(会った(男女の関係になった))状態でも、ということ。これは一種の慣用表現でしょう。
「まそ鏡見とも言はめや玉かぎる岩垣淵(いはがきふち)の隠(こも)りたる妻」(万2509)。
「君が家の池の白波礒に寄せしばしば見とも(美等母)飽かむ君かも」(万4503)。