◎「とほし(通し)」(動詞)
「とへおほし(と経生ほし)」。「と」は何か思念的に確認され理性化する助詞のそれ(9月7日・8日)。「へ(経)」は経過を表現する動詞のそれ。「おほし(生ほし)」は「おひ(生ひ)」の他動表現であり、存在主張を肥大膨張的強化させること(→「おひ(生ひ)」(2020年11月10日)「おほし(生ほし)」(2020年11月23日)の項)。存在主張の強化はそれを弱化し消失させようとする環境においては存在の維持になる。たとえば。「水をとほし」は、水を、と、経(へ:経過し)、生(おほし:存在を維持し)、という表現になる。そうした表現から、「とへおほし(と経生ほし)→とほし」が、なにものかやなにごとかを経過しつつ自己を維持することを意味するようになる。その場合、「おほし(生ほし)」は自己への他動という状態になっており、「とほし」は自動表現です。「水をとほし底を見る」「簀(す)をとほし庭を見る」は、「を」は状態を表現し、水の状態で、簀(す)の状態で、という自動表現であり、水や簀(す)に対する他動表現ではない。そして自動表現は、情況を表現する活用語尾R音により、表現を客観化することにより明瞭になり「とほり(通り)」になり、「とほし(通し)」は他動表現になる→「針に糸をとほす」。古い例では「とをす」と書かれることもある。漢字表現はほとんどが「通」。
「玉垂(たまだれ)の小簾(をす)の間(ま)通(とほ)しひとり居て見る験(しるし)なき夕月夜(ゆふづくよ)かも」(万1073:夕月夜(ゆふづくよ)が小簾(をす)の間(ま)をとほる)。
「光明一切の世界に照し徹(トホシ)たまふこと、夜暗の中に而(あたか)も大火を然せるが如し」(『守護国界主陀羅尼経』平安中期点:光明が世界にとほる)。
「文殊是過去佛。能(よ)く佛事を達(トホシ)たまへり」(『法華義疏』長保四(1002)年点)。文殊は仏事にとほる(「この花の公案なからん為手は、上手にて(世に)通るとも、花は後まではあるまじきなり」(『風姿花伝』))。
「隠(こも)りどの沢泉(さはいづみ)なる岩が根も通(とほ)してぞ思ふ我が恋ふらくは」(万2443:岩が根もと経(へ)生(お)ほし→岩が根もとほし(岩が根も経過しつつ自己を維持し)。岩が根もとほる(それよりももっと奥へひろがる)。)。
「白き生絹(すずし)に紅(くれなゐ)のとほすにこそはあらめ、つややかなるが…」(『枕草子』:これは白き生絹(すずし)を紅(くれなゐ)がとほる)。
「心を百家の論に想融(トヲシ)て(想融心百家論) 慮を九部の経に迁(拪・す)ましむ」(『三蔵法師伝』承徳三(1099)年:「迁」の部分は「拪」とも書かれますが、「迁」は『廣韻』に「伺候也,進也」とされる字。「拪」は『集韻』に「遷古作拪」とされる字。つまり、「遷(セン):うつる、のぼる、ゆく」と書かれているようなもの。この「融(トヲシ)」は他動表現でしょう。自動表現の場合、「百家論融心」になりそうです)。
「ほどひさしくして、七曲(ななわだ)にわだかまりたる玉の、中通(なかとほ)りて左右に口あきたるがちひさきを奉りて、『これに緒(を)通(とほ)して賜はらむ。…』」(『枕草子』:「中通(なかとほ)り」は自動表現。「緒(を)通(とほ)し」は他動表現)。
「霍公鳥(ほととぎす)飼(か)ひ通(とほ)せらば今年経て来向(きむ)ふ夏はまづ鳴きなむを」(万4183:これは、~とほし、の、~、に動詞がついている。その動態が持続する→「最後までやりとほす」)。
「門を開き人をとほす」。「来客を座敷へとほす」。「町に鉄道をとほす」。「筋(すぢ)をとほす」。「我(が)をとほす」。「その行事は年間をとほしてある」。
◎「とほり(通り)」(動詞)
「とほし(通し)」の自動主体を明瞭にするために生まれた自動表現。通す状態に、すなわち、なにものかやなにごとかを経過しつつ自己を維持する状態に、なること。
「我が袖(そで)は袂(たもと)とほりて(等保里弖)濡れぬとも恋忘れ貝取らずは行かじ」(万3711)。
「ほどひさしくして、七曲(ななわだ)にわだかまりたる玉の、中通(なかとほ)りて左右に口あきたるがちひさきを奉りて…」(『枕草子』:これは上記にもある例)。
「あまだむ(阿麻陀牟) 軽嬢子(かるをとめ) したたにも(志多多爾母) 寄り寝てとほれ(登富禮) 軽嬢子(かるをとめ)ども」(『古事記』歌謡84:「あまだむ(阿麻陀牟)」は「あまぢとはむ(天路問はむ」でしょう(その項)。「したたにも(志多多爾母)」は「したつやにも(下つ家にも)」(その項))。